「マルボウ」(SM)の第5章の一部を訳出してみる(pp.236-237.)。ここでの翻訳は合田正人風、すなわち教育的なくどい訳で行ってみる。ちなみに鵜飼訳はもう少しあっさりしているが、やはり同じ路線である。教育的といえば、あの篠田カントの訳註(他のカントのテクストから参照個所をじかに持ってくる)は実に教育的だと思う。まあデリダに対しては出来ないが…。
デリダやラカンに対しては、"mot à mot"が最良と思われているようだが(ラカンの「セミネール」をじっくり、などというtのゼミもあった。が、私が学部生の頃、nyさんやsiやkkと「セミネール」の2巻を読んでいた時そういう方法はとらなかったはずだし、今もとらない)、必ずしもそうではない、ということの実証として。
重要なのは(少なくとも僕にとって)、デリダの字句を嘆賞することではなく、彼のいわんとするところだけを出来る限り正確にかつ素早く知ることだからである。彼のこじつけや自己正当化に一々付き合わねばならない理由はない。さて(幽霊・亡霊・幻霊という東さんの区別に出来れば従いたいが参照できないので、適当)、問題となっているのは、イデオロギーと「宗教的なもの」の関係(そして「亡霊」)である。
≪イデオロギーとは何か?今しがた「偶像という世襲財産」について語った際にざっと見たばかりの「生き残ること」の論理、とでも翻訳できまいか。もしそんな翻訳操作を行なってみたとすれば、いかなる利益があるであろうか。
『ドイツ・イデオロギー』における幻霊的なもの[fantomatique]の取り扱い・処理加工は、マルクスがイデオロギー一般の分析において、常に宗教に認め、そして宗教や神秘神学[神秘主義的なもの]ないし神学としてのイデオロギーに認めていたところの「絶対的な特権」を告げ知らせる、ないしは確認する。幻霊がその形態を、すなわちその身体を、イデオロギー素に与えているのだとすれば、種々の翻訳がしばしばそうしているように、亡霊の意味論や語彙一覧を、それとほぼ等価と判断される様々な意味(幻影的なもの、幻覚的なもの、幻想的なもの、想像的なもの、等)の中から消し去ってしまうことによって欠けてしまうのは、マルクスに従えばまさに宗教的なものに固有のものなのである。
宗教的なものの経験を印し付け強調する限りでの、フェティッシュとも呼ばれる盲目的崇拝物の神秘的性格とは、何よりもまず幻霊的な[fantomal]性格のことである。マルクスがレトリックや教育的配慮から用いた表現上の便宜といったレヴェルをはるかに越えて、一方では、問題となっているのは、亡霊に絶対的に固有の性格であるように思われる。
たとえマルクスが社会経済的系譜学や労働と生産の哲学の中にそれを書き込んでいるように思われるとしても、この性格は、ある種の想像力の心理学ないしある種の想像的なものの精神分析以後、気ままに漂っているわけには行かなくなっているし、同様に存在論ないし誤-存在論から派生するというのでもない。
こういった推論はすべて、亡霊的生き残りの可能性を前提にしているのである。他方で、同時に、問題となっているのは、イデオロギー概念の構築における宗教的モデルの絶対的固有性[還元不可能性]である。したがって、マルクスが分析(例えば商品の神秘的性格ないし物神への生成変化の)に際して亡霊たちを召喚する時、我々はただ単にレトリックの諸効果や、想像力に強い衝撃を与えて説得することだけが目的の偶然的で注目するに値しない言い回しといったものをそこに見るべきではない。それにもしそうだとしても、それでもなおこの点に関してそれらの効力を説明せねばならないだろう。
「幻霊」効果の打ち負かしがたい威力[force]と独特の支配力[pouvoir]を考慮に入れねばならないだろう。何故それが怖がらせ想像力に強い衝撃を与えるのか、恐れとは、想像力とは、それらの主体とは、それらの主体の生とは何なのか、等々を言わねばならないだろう。
「価値」(使用価値と交換価値の中の)の、「秘密」の、「神秘主義的なもの」の、「イデオロギー的なもの」の諸価値が、マルクスのテクスト、とりわけ『資本論』において連関を形成しているこの場所に、しばしの間、身を置いて、この連関の「亡霊的」運動を少なくとも指し示すことを(それは指標に過ぎないであろうが)試みてみよう。この運動が舞台に掛けられ上演されるのは、我々の盲目的な目を開く瞬間に我々の目から舞台が、あらゆる場面・光景がこっそり逃してしまうものの概念を形成することがまさに問題となっている個所においてである。さて、この概念は、まさにある取り憑きを参照することのうちに構築されるのである。≫
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