こんにちは。hfです。励ましのお言葉、ありがとうございました。火事がきて、物理的・精神的な被害はほとんどなかったものの(部屋も本も無事です。メールは自分の部屋から送ってます)、どこか疲れています。
ま、嫌なこと書いても仕方ないので、今楽しみにしてることを書きます。Noésisという名の哲学科の学生自治会があって、そこをとりしきってる女の子が鼻息も荒くいろいろ走り回っているのですが、私がナンシーの思想に多少親しんでいることを知って、コンタクトを取ってきました。そんなこんなで、今度、ジャン=リュック・ナンシーにインタヴューすることになりました。
『無為の共同体』についての浅田・大澤の書評が電子批評空間にアップされましたが、時を同じくして、『無為』の続編と言うべきか、『無為』にまつわるよもやま話を綴った"La Communauté affronté"(ひとまず『対立の共同体』とでも訳しておきますか)が出ましたね。
この『対立』を読み、『無為』を読み返して思うのは、浅田(大澤)さんのネグり方の見事さですね。例えば、ナンシーは常に「西洋」「キリスト教」にこだわっているのですが、浅田(大澤)ナンシーはまったく中立的、抽象的・理論的な共同体の思想家に仕上がってます。「細部を捨象する」というのは、それなりの犠牲を払っているのだということがお分かりいただけると思います。
私はナンシーのどの本を読んでも、ナンシーと言うのは神学生っぽいんだよなあ、と感じます。そしてどんな思想家について語るにせよ、この「感じ」をぬきにして、その思想家の本質的な部分、オリジナルな部分は見えてこないと思っています。
例えば、浅田さんはあたかも『侵入者』の文体だけが簡潔でストイックであるかのように言ってます(るようにも取れる)が、ナンシーの言葉は、私がML00613で言ったように常に「sec, maigre, difficile」です。いや今なら、より正確に「乾いたsec、禁欲的なascétique」と言いましょう。ストイックは日本語では「禁欲的」と変わらないと言われてしまえばそれまでですが、後期フーコーの文体がストイック、すなわち非キリスト教的禁欲であるとすれば、ナンシーの文体はやはりアセティック、すなわち(ここでは)キリスト教的禁欲だと思います。
お分かりのように「感じ」は内容と文体の双方から、それだけでなくあらゆる情報からくるものです。例えば、ナンシーはストラスブール大学でドイツ思想(専門はドイツ・ロマン派の文学とドイツ観念論)を教える哲学教授です。ここから、
1)フランス語で"Outre-Rhin"と言えば、ドイツのことを指しますが、もちろん原義は「ライン川の向こう」なので、フランスとドイツの両方を指すと強弁することもできます。ご存知のように、ストラスブールはフランスとドイツの間で奪い合いが絶えなかった土地で、この独仏の争いは元を辿ればフランク王国の分割に行き当たります。何を隠そうフランス文学史上、最古のテクストである、"Serments de Strasbourg"(ストラスブールの誓文)とは、東西フランク王国が国境確定(安全保障)をめぐって842年に結んだ援助協約なのです。
2)ナンシーと、とりわけフィリップ・ラクー=ラバルト(ナンシーの盟友。同大学で美学を教える哲学教授)にとって、あらゆる哲学の問題はつまるところ、フランスとドイツの国境の問題に帰着すると言っても過言ではありません。そしてこの構図の取り方自体が実に1830-40年代のドイツで「神学的」と呼ばれ、モーゼス・ヘスがそれを乗り越えるために産業革命以後の「経済のイギリス」を持ち出した(彼は「ヨーロッパの三頭制」という本を書きました)当のものなのです(ナンシーはこの構図から抜け出そうとしてますが)。
中途半端で済みませんが、失礼します。Netscapeで送ろうとしてるのですが…
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