Jean-Luc Nancy, La Communatué affrontée, éd. Galilée, 2001.
『対立の共同体』の議論は、ざっと読んだかぎりでですが、さして『無為の共同体』から進んだものではありません(ま、そもそもこれは、ブランショの『明かしえぬ共同体』の伊版改訳に際して付された序文にすぎないのですから、多くを求めるつもりはありませんが)。
とても意地の悪い言い方をすれば、共同体(個体)の起源には必ずや対立(分割=共有、侵入者)があり、それなしには共同体(個体)そのものが存在しえない、という今までにありがちな議論に「対立」という言葉を当てはめて、アクチュアリティとの関連を匂わせるというやり口はいささか安易。何より私が恐れていた安易な東洋哲学の要約をやってしまっているという点で、馬脚をちらりと見せてしまったかな、という感じ。
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私が去年の彼の講演を聞いて以来嫌だったのは、やたらと「西洋」ということを強調する点なんですね。それは西洋哲学を普遍視しまいとする警戒であるかぎりでは節度ある態度と言えますが、いつまで経ってもそこから東洋哲学を知ろうとはしていかない点で、やっぱりなんだか表層的な節度に思えるんです。
表層的な節度だから興がのると、ついうっかり大言壮語してしまう。
"Inde ou Chine ne pensent pas, pour le dire grossièrement, selon l'Un, ni selon la Présence" (p. 12, n1).
「大まかに言ってインドや中国は、「一者」や「現前」に基づいて思考しない」。これでは一昔前の日米のデリディアンがやっていた「プラトン以来の「現前」の西洋形而上学の伝統」とかいうのと何ら変わらないではないですか?で、自文化について言うならまだしも、「インドや中国」って…。結局敬意は払うんだけど、興味はないんですね、残念だけど。
今日はマシュレ主査の博論諮問を見物し、打ち上げでいろんな人と話したんですが(審査員の顔ぶれがなかなかすごい。またいつか諮問体験記をご報告します)、「日本でフランス哲学を教える教授なんているのか」と驚いてる人がいました。諮問に来てた哲学関係者ですよ。そういう状況を作ってしまった原因の一つには、やはり日本人の側からの紹介の努力不足ということがあるのではないか。
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私が感じる日本人の哲学学生の捉えられ方は、1)フランス語をまともに話せない、2)まともな哲学史の知識をもってもいなければ哲学の仕方(フランス風の)も知らない、3)現代思想の「知識」はそこそこ持っているが、それだけ。(例えば、青年マルクスの学位論文「デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異」(1841年)についてマシュレが彼なりの読解をきちんと提示した後、一人の日本人が質問として――無論、黙ってニヤニヤしている奴よりはるかにマシで、努力は高く買うけれど――、「アルチュセールの偶然性の哲学…」と言ってニヤニヤする。けれど、残念ながらこれは知識の切れ端であって、哲学でも何でもない。いくら「示唆」してみたって駄目なのだ。自分で「展開」できなければ!)
つまりほとんど哲学的nulと思われている。私はこの三つを、三つとも反駁しようとしてあがいている。こういう状況を思うとき、Tran Duc Taoを思わずにはいられない。Tran Duc Taoも知らずに、アジア人がフランスで哲学するとは、と思う。
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