Tuesday, February 22, 2005

「おフランス」と「ここがダメだよ日本人」

ところで、こういうブログをやっていると、必ずやいただく初歩的な「非難」がある。それは、「結局、あなたはフランス(ないしヨーロッパ)がやってること はなんでもよくて、日本は何でもダメダメって言いたいんでしょ」というものである。答えはもちろん、「まったく違います」である。この種の議論に個別的に 応答することはできないので、ここでお答えしておきたい。

1)「おフランス」。このような反発を感じる人は、フランスないし西洋や、これ らの国に何らかの形で関わる仕事に携わる人々に対して自分自身が抱いているところの紋切り型のイメー ジを勝手に他者に投影して、話を展開することが多い。私は、フランス人の「カッコイイ」先生目当てにカルチャーセンターにいそいそと通う有閑マダムのよう に、「おフランス」に興味をもっているわけでもなければ、フランスという国家が過去になしてきた非道極まりない植民地主義的・帝国主義的行為(その傷痕は 現在なお裂開したままである)や現在フランス社会が抱えている諸問題に関して、無知なわけでも目を閉じているわけでもない。小坂井敏晶は、
フ ランス語を学ぶ人のほとんどはフランス文化に魅了された人であり、フランスに特別な関心を持たぬ私と気の合う人はアテネ・フラ ンセにあまりいなかった。フランスかぶれの教師や生徒に対する反発もあって、つい私は反西洋、そして第三世界支持の立場を主張する。(・・・)私が西洋に 定住する必然的な理由はなかった。家庭環境からいっても、また私自身の関心からいってもフランスなどとは無関係だった。様々な偶然が重なり、たまたま出 会った人、そして思いもかけないチャンスが私を日本の外に連れ出したのだった。(『異邦人のまなざし 在パリ社会心理学者の遊学記』、現代書館、2003年、25-26、54頁。)
と書いているが、私もこのような感想を、さらには彼が論じたいと考えていた次の三つのテーマをも、関心として共有している。
一 つ目は、なぜ、第三世界の諸国で失業が生じ、仕事にあぶれた人々が移民という形で先進国に流れるのかを検討するもので、サミー ル・アミンなどがマルクス主義の立場から理論展開していた。二つ目のテーマとしては、移民がフランス社会で生きる意味を、経済面だけでなく、社会関係や心 理の動きをも含めた多角的角度から探ることを考えた。残る三つ目は、「『名誉白人』 西洋人に対して日本人が抱く劣等感」と題して、明治以降に日本人が西 洋人を手本にして国の近代化を目指す過程で生まれた、西洋に対する憧れや劣等感を検討するものだった。(同上、46-47頁。この第三の点に関しては、『異文化受容のパラドックス』(朝日選書、1996年)、あるいは Les Japonais sont-ils des Occidentaux? Sociologie d'une acculturation volontaire (1991) という著書の形で出版されているようである。)
したがって、「おフランス」「西洋かぶれ」に対する漠然とした反感ないし嫌悪感から私の論述に反論を抱かれている場合には、もう少しフランスや西洋についてご自身で勉強していただくほかはない。

2) 「ここがダメだよ日本人」。これは、このブログでやろうとしていることではまったくない。何様のつもりか大知識人ぶって日本の現状を慨嘆してみせ、結 局のところ平凡なコメントをはく、といったことに時間と労力を費やしたいわけでもない。私がここで(時間の許す限り)考えてみたいのは「その先」である。 現代日本の政治・経済・社会状況に問題があるとして、それは一体いかなる問題であるのか、その根本原因は何か、いかなる対処療法がありうるのか、というこ とを理論的・哲学的に考えてみることなのである。例えば、私は、NAMの活動が不調に終わった原因は、「連帯」と「世間」の間の差異と決して無関係ではな いと考えているし、日本における現代思想、のみならず哲学自体の全般的な退潮は、その激しい流行の移り変わりとともに、決して「名誉白人」的な、西洋への 憧れや劣等感と無関係ではない、と考えている。

さて、せっかく小坂井氏の著書を引いたので、もう少し「遊学記」らしい、面白いところを引いて、このトピックを終えることにしよう。
パキスタンの旧都ラワルピンディにいた時、現地の民族衣装を買って身につけ、得意がって町を歩いていたら、道行く人が皆私のほうを見て笑う。外人がキモノを着て渋谷を歩くようなものかなと思っていたら、何と私が身につけていた服は女性用だった。(同上、23頁。)

フ ランスに住むようになってからも大学に就職するまで通訳はずっと続けた。他人の考えを伝えるよりも、自分自身の意見を述べたい性分の私には本来不適な職 種だが、通訳をすること自体よりもそれに付随した経験が興味深かったし、後の研究生活において間接的に役立っていると思う。(・・・)例えば鉄道をはじめ とする乗客輸送の分野では、乗り心地を良くするために騒音防止が大切だが、騒音を他の音で相殺するという発想にとても感心させられた。音は波動だから、そ の波形には山もあれば谷もある。だから騒音の山の部分に対して谷が、また谷の部分に対して山がちょうど重なり合うように調整した他の音を客室にわざと流す と、人間の耳に騒音が聞こえなくなる。ノイズを消すために、さらにノイズを発生させることで解決するという、いわば毒を以って毒を制する素晴らしい発想だ と思う。我々社会学に従事する研究者もこのような柔軟な頭で問題にあたらなければならない。(同上、40-41頁。)

Monday, February 21, 2005

哲学の教育、教育の哲学(1)数の問題

フランスの人口 は約六千万人、日本は一億二千七百万人だから、日本の人口はフランスのほぼ二倍である。では、各種職業の数もそのまま二倍になるかというと、そうではな い。たとえば哲学教師の数は、正確な統計データがあるわけではないが、比較にならないほど違う。理由としては少なくとも次の二点が考えられる。

1)フランスの教育の大きな特徴のひとつは、高校の最終学年に哲学を置いていることであるが、これによって哲学教師の数は格段に違ってくる。
「ヨー ロッパにおける哲学教育は、知識の暗記ではなく、哲学を自分なりにどう表現できるか、つまり哲学的教養に裏付けされた「作文」技術、といっても過言でない と思います」とおっしゃる方を見かけたが、高校・大学教養レベルで言えば、まったくそのとおりである。http: //www.nets.ne.jp/~keio/methode_philo.html

「哲学的教養に裏打ちされた」というところが味噌 で
フランスの高 校における哲学は、日本の「倫理・政経」といった結局のところ知識詰め込み方の教育とはまったく異なるものである。無論、フランスの高校 における哲学教育が問題をはらんでいないと言えば嘘になる。むしろ多くの問題をはらんでいるが、それは社会構造からくるかなりの程度不可避的な問題なので ある(郊外に住み、「問題のある」高校に通う生徒たちに、哲学という、一方で短期ハイリターンをもたらさず、他方で思考力・忍耐力・知識を必要 とする学問をどのように教えるか)。

2) 「哲学」というものの社会的な位置づけが日本とフランスにおいて決定的に異なる。フランスにおいて「哲学者」という職業は尊敬されるに値するものであ るが、日本においては「奇矯」な振る舞いをする、「偏屈」な思い込みに凝り固まった、「変人」といったあたりが通り相場ではなかろうか。これは言いすぎだ としても、決して社会的に積極的に評価される位置についているとは言いがたい(このことは第一点と相関関係にある)。

こ れには歴史的に、日本の哲学者たちがきちんと自分たちの存在意義、哲学という学問の存在意義を社会にアピールしてこなかったという面もあるだろうし、そ れはそれで絶えず改善されていかねばならないが、他方で、世間の側からの「知」一般に対する敬意の欠如といったものがありはしないか。21世紀にもなっ て、未だに哲学といえば、「ソフィーの哲学」だの「本田宗一郎の人生哲学」だのが幅を利かせているのではないのか。これでは哲学者になりたいと思う青年た ちの数が少なくなり、ますます「奇人変人」ばかりが集うようになっても不思議はない。

当然、次のような反論が予想される。「哲学がかつて 社会の多数派の関心を占めたこ とはない。かえって、占めたときには(旧共産圏諸国におけるマルクス・レーニン主義哲学の特権的な位 置)、異常事態が起こっている証拠である。哲学は常に少数の真に思考を愛する者のものであればよい」と。しかし、これは、現代の知 の布置を考えたとき、あまりにユートピア的、浪漫主義的、大正教養主義的にすぎて容認できない。民主主義体制下における「大学での大衆啓蒙」という限りな くパラドクシカルな任務に直面して、それでは職場放棄も同然ではないか。

基本的なことを確認しておけば、本来、大学とは勉強する場であっ た。だが、現代日本にあって、大学とは「就職のためのパスポート」にすぎないという認 識が完全に定着している。この認識は、不況にあおられて、ようやく学生が真面目に勉強するようになったというここ数年でも、特に変わったようには見受けら れない。このような社会通念は、極端にまで推し進めて表現すれば、つまりはこういうことになる。「
偏差値、ネームバリューなどから見て、少しでも「よい」大学に入学することが最重要事項なのであって、大学で何を学ぼうが、そんなことはさして重要ではない。大学で得るべきものは、サークル活動によるかけがえのない友人、アルバイトによる得がたい社会的経験など、むしろ大学外で「学ぶ」ことのできるものである」。

こ のような考えは、中学・高校といった中等教育にまで浸透している。「
偏差値、ネームバリューなどから見て、少しでも「よい」高 校は、「よい」大学へのパスポートである」、「中学は・・・」というわけだ。これが、日 本の社会が過去数十年にわたって是認してきた通念であり、現在の学力低下は、教育の内容ではなく、教育がもたらす「実益」(むろん表面的な)に関心を持ち続けた、そ の必然的な帰結である(アメリカやヨーロッパでも事情は似たり寄ったりであるが、もたらされる帰結は異なる。日本ほど大学進学率が高くないからである)。 これは一部の「教育熱心」な「教育ママ」の行き過ぎや 歪んだ価値観といった個人的な資質に帰される問題ではない。「知」や「文化」に無関心でありながら、その世評や功利的価値には過大な評価を与える、社会の 全般的な風潮自体が問題なのである(言うまでもないが、偏差値やネームバリュー を評価したり、有名塾の校長の講演会に足繁く通うことが「知」に敬意を持つことではないし、ハイカルチャーに精通することが必ずしも「文化」に親しむこと なのでもない)。「ゆとり教育」や「総合学習」の意義は決して小さいものではないが、問題の根はもっと深いのである。

では、「知」への敬意を持てばそれでいいのか。そうではない。まだ、「実学志向」という、結局のところ「能率」や「効率」、一言で言えば、performativityの問題と結びついた根強いイデオロギーが残っている。これについては、項を改めて述べる。

い ずれにせよ、ここで確認しておきたかったのは、民主主義において決定的な重要性を持つ「数の問題」は、哲学の教育にも、教育の哲学にも、無関係であるどこ ろか、その本質的な契機のひとつである、ということである。ス ポーツでも何でもそうだが(昨今のサッカーの 隆盛ぶりとラグビーの凋落ぶりを見ればよい)、裾野の人口と社会的な位置づけは決定的に重要な要素である。有能な人間は、金が儲かる、自分が社会的に認め られるという職種へと自然に導かれていく。現代世界においては(大金持や貴族、遺産などで哲学をしていた過去の大哲学者たちとは違って、カント以降、哲学 者=哲学教師なのである)、哲学も職業、professionである以上、これらの要素は無視し得ないものであるにもかかわらず、社会も自分たち自身も相 変わらず、どこかに「哲学者=無垢な(社会的地位にこだわらない)、清貧の(経済状況にこだわらない)聖人」といったイメージがあるのではないか。哲学と いう学問は、悪循環スパイラルに落ち込んでいる、というこの見方が見当違いなものであってくれればよい が、と願わずにはいられない。

哲 学のみならず、人文・社会科学全般は、若者たちの健全な批判的思考能力を養い、社会がファシズム化してい くのを食い止める、最後にして最大の砦である。逆 に言えば、社会がファシズム化していくとき、まず最初に標的にされるのがHumanitiesなのである。石原都知事による暴力的な都立大学「改革」、の みならず全国各地の大学における文系学部の縮小改編や第二外国語の削減は、 まさにそのことを典型的な形で示している。

Sunday, February 20, 2005

哲学的アンソロジーの効用

大哲学者の未刊草稿や遺稿などを探し回ることを揶揄する言説がしばしば見られるが、私は一般にいかなる翻訳出版にも異議を唱える理由はないと考えている。ハイデ ガーのどんな走り書きでも、ニーチェの小紙片に書きなぐられた草稿でも、翻訳されてならない理由などない。それらを用いて優れた仕事がなされえないと考え るいかなる理由もない。ただ、それらの資料を用いたからといって自動的・必然的に大思想家の「隠された一面」がより良く照らし出されるわけではない、とい う自明の点に注意しておけばそれで十分である。

ドゥルーズ二十歳の頃の処女エッセイ「キリストからブルジョワジーへ」と二十八歳の頃のアンソロジー『本能と制度』を収めた『ドゥルーズ初期』(加賀野井秀一訳、夏目書房、1998年) もまた、まさに読み手がどのように料理するかによってその味付けを極端に異にする一冊である。ドゥルーズと哲学史と言えば、水と油の関係として思い描かれ ることが多い。例えば、彼の『記号と事件』や『ダイアローグ』における言及の仕方などを思い出せば十分であろう。だが、主著の一つである『差異と反復』序 文を思い出してみれば分かるように、ドゥルーズにおけるコラージュ技法には明らかに彼独自の哲学史観の反響が見られるのである。

アンソロジーとは、そもそもanthologiaというギリシャ語に由来し、anthosは「花」、logiaはここでは言説や著作の様々なタイプを指す。さまざまな花を集めてブーケを作るように作られた『詞華集』。

私 はすべての種類のアンソロジーが有益であるなどと主張するつもりはない。ここではただ、哲学におけるある種のアンソロジーの試みが、時として手軽な手間仕 事を超え、さらには単なる翻訳作業をも超えて、一つのレッキとした哲学的な営為となりうることを強調したいまでである。ささやかながら哲学的アンソロジーの効用を擁護することを試みたい。

アンソロジーは人の言葉を借りて語る。現代思想は手軽なコピー・コラージュの思想であるという皮肉をよく耳にするが、そのような言説には、つまるところ「自分固有の言説を語りうる」というあまりにも素朴な実在論が低意として透けて見える。

アンソロジーはまさにコピー・コラージュの発想である。そして、まさに優れたコラージュ作品が一つのれっきとした芸術作品たりうるのと同様に、優れたアンソロジーはそれ自体一つのれっきとした思想的営為たりうるのである。

そもそもコラージュを思想の現代における衰退を物語るものとして皮肉ることほど歴史的知識の欠如を曝け出したものの言い方はない。アンソロジーは最も伝統的な思想的手段の一つなのである。

 ここでは、カンギレムのアンソロジー叢書「哲学テクスト・ドキュメント」Textes et documents philosophiquesを 見ておきたい。カンギレム自身の『欲求と傾向』をはじめとして、ドゥルーズの『本能と制度』、ダゴニェの『生命と文化の諸科学』、ジャン・ブランの『意識 と無意識』、フランシス・クルテスの『科学と論理』、ロベール・ドラテの『正義と暴力』、ルイ・ギイェルミ『自由』などが収められている。

Sunday, February 13, 2005

「連帯」と「世間」

 先の高校生のデモにしてもそうだが、日本でもよく知られているように、フランスはデモの多い国である。人口のこともあるから一概には言えないが、ドイツやスペインに比べても多いのではないか。いわゆるdésobéissance civique、「公民的不服従」の伝統である。ここでは二つのことに注目しておきたい。

1)公民的(civique)であって、市民的 (civile)ではないこと。英語における対応表現"civil disobedience"との、些細だが重要な差異を見落とさないようにしよう。実際、フランス語の表現において問題になっているのは、単に権威に反対する個人としての一市民ではなく、重大事態に際して、国家への不服従を公然と率先して行うことによって、市民権を創り直す公民なのである(この点に関して は、エチエンヌ・バリバール『市民権の哲学 民主主義における文化と政治』(松葉祥一訳、青土社、2000年)、第一章「公民的不服従について」を参照 のこと)。この差異は、デモの規制、取り締まりないし弾圧において顕著になる。誇張して言えば、日本のデモにおいては、警官は個人をターゲットとする。写真を撮り、尾行 し、個人の私生活への介入を平気で行うが、フランスのデモにおいて規制されるのは、運動であって、個人ではない。
Étienne Balibar, Droit de cité. Culture et politique en démocratie, éd. de l'Aube, 1998. Notamment le 1er chap. "Sur la désobéissance civique".

2)この「公民的服従」の根底にあるのは、solidaritéすなわち「連帯」というイデーである。この点に関して、いつも頭をかすめる文章がある。少し長いが、引用しておこう。  
 三年目の冬、論文の完成を目前に問題が生じた。それまでは寮に好きなだけ滞在できた外人学生が、今後は三年と期限を切られることに、急遽決定したのである。論文を仕上げるのに、あと三月必要だった。その間だけ延長は出来ないものかと掛け合ったが無駄だった。
 全力投球の論文が乗るか反るかの瀬戸際に、これから宿探しかと暗澹たる気分のところに訪問を受けた。見覚えのない顔が三つ並んで、寮の自治会委員を名乗った。外人学生が困っていると耳にして、実態調査に来たという。よかったら学校側に掛け合ってやろうと言われて、目から鱗が落ちた。
 自分たちの利害とは別の位相で、マイノリティの被る困難に積極的に係わろうとする人々がいる。市民社会という概念にも、こうして実態が宿る。厳然たる階級制度に則った縦社会のフランスは、横のタガもまた太いのである。
 当時寮には数人の日本人がおり、うち二人が三年目で論文を抱えていたが、お互いに「困ったわね」、「大変ですね」を繰り返し、おろおろするばかりであった。
 連帯という言葉にリアリティーを持てない国民性をわが身に感じた。(荻野アンナ「解説 フランスで、一心不乱す」、ポリー・プラット著『フランス人、この奇妙な人たち』、393-394頁。) Polly Platt, French or foe ?

 この文章の続き(フランス語に関する) もなかなか興味深いのだが、それはまたの機会に紹介することにして、ここでもう少しだけ深めておきたいのは、「では、日本における『連帯』にあたる概念は何か」という問いである。「それは、『世間』でしょう」といった人がある。なかなか当を得ているように思う。いずれ詳細に比較するとして、ここでは次の文章を引用するにとどめる。

 「世間」というのは曖昧模糊としたものです。はっきりした主体がない。誰かが親を追及するとなると、その人は自分はともかく、「世間が納得しない」からだというでしょう。

 欧米にはキリスト教的道徳があり、それが個人主義の基盤になっていると、よく言われます。しかし、別の意味で、儒教圏の中国や韓国にも道徳的機軸があり、それが逆説的に、一種の個人主義を可能にしています。日本にはそのようなものがない。その代わりに、「世間」という得体の知れないものが働いているのです。本居宣長は、道徳というようなものは中国から来たもので、いにしえの日本にはそんなものはなく、またその必要もなかったといいました。ある意味で、この指摘は正しい。日本人は、道徳というと、何となくけむたいような感じを受けます。戦後、アメリカ化によって道徳観が壊れたというようなことをいう人がいますが、それは嘘です。しかし、道徳的規範がないということは、まったく自由で、共同体の規制がないということを意味するのではありません。なぜなら、
規制は「世間」というものを通してなされるからであり、この「世間」の規制はきわめて強く存続しています。(柄谷行人著『倫理21』、平凡社、2000 年、23-24頁。とりわけ「『世間』という得体の知れないもののもつ力」(22-30頁)というセクション全体を参照のこと。)

 「連帯」と「世間」の差異は、宗教的なものなのか、歴史的・文化的なものなのか。おそらくは、そもそも「個人」や「宗教」といった日本語の概念とindividuやreligionというフランス語の概念の差異自体から分析を始めなければならないのだろう。

仏・入試改革 高校生「ノン!」 十万人デモに政府譲歩

 これまたリンク先が切れそうなので、備忘録的に。西日本新聞は、けっこう頑張ってる印象がある。このニュースも含め、フランスの教育制度に関する情報は、下記yahooアドレスから。

 【パリ11日井手季彦】フランス国会で来週審議が始まる教育改革法案をめぐり、 高校生の抗議行動が全国で高まり、十日、とうとうフィヨン教育相が「(法案の一部の)大学入学資格(バカロレア)試験改革については、学生の不安が解消し ない限り実施しない」と表明した。高校生の連帯が教育制度改革に「待った」をかけた形だ。

 同法案は、バカロレアの判定基準に、現在の全国一斉試験以外に、各高校で行う日 ごろのテストの成績も加える改革のほか、授業についていけない生徒対策や補助教員の配置変更など、学校教育全般にわたる内容。高校生たちは特にバカロレア 試験改革について「全国一律の原則が崩れる」と反発。今月初めから高校生組合の指揮で抗議行動を始め、十日にはパリ、リヨン、ボルドーなど主要都市で計十 万人を動員しデモを繰り広げた。

 これに対し、高校生の声を無視する姿勢をとり続けてきた政府は一転、「バカロレ アについては法案の主要テーマではなく、なお議論したい」(同教育相)と、譲歩を示した。政府としては、欧州憲法条約批准の国民投票を夏前に控え、高校生 の抗議活動が反政府ムードの高まりにつながることを食い止めたい狙いがあるとみられる。

 しかし、高校生組合は法案自体の撤回を求めており、国会審議が始まる十五日には、同じく法案に反対している教員組合とも連携して、大規模なデモを予定している。
(西日本新聞) - 2月12日2時24分更新
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/france/

Thursday, February 10, 2005

はじめに

 昔読んだきりでうろ覚えなのだが、広松渉の啓蒙的な著作に『哲学入門一歩前』というのがあって、この「一歩前」という言葉には二重の意味がこめられていると言う。哲学に本格的に入門して様々な哲学者や哲学史や哲学概念に立ち向わねばならないのかと思うと何 となく腰が引けてしまうという人たち、入門する「一歩手前」にいる人たちに向けて本書は書かれている、と同時に、そんな重苦しい武器などなくても素手でも 哲学の門を強行突破してやるというくらいの気概を持て、本書とともに門の中へ「一歩前へ」踏み出せ、というメッセージも込められている、といった話であっ た気がする。逡巡と決断とを同時に表す「一歩前」。哲学自体がそのように迷いつつ進む「一歩前」なのだとすれば、そしてアルチュセールがとある美しい哲学 的恋文の中で言ったように(我々はそれを『哲学・政治著作集』第二巻の冒頭に読むことができる)、哲学とは常に「はじまり」以外の何物でもないのだとすれ ば、つまり因襲的な思考習慣とそれが産み出す様々な幻想との切断において常に新たに考え始め、考え始め続けること以外の何物でもないのだとすれば、「哲学 入門一歩前」とは実に三重にリダンダントな表現だということになる。


 このサイトは、現代思想「入門一歩前」の人々を対象としている。
しかし、ここで思い違いを与えないように言っておけば、現代の思想を研究するから現代思想なのではない。現代という時代にあって、その時代を通して、その時代とともに、その時代のために、思想を研究し、思想するからこそ、現代思想なのである。いやしくも思想と呼ばれるに値するものは、どんな時代のどんな対象を相手にしていても、それが力あるものであるなら、「現代思想」である。まさにこの意味で、現代思想という言葉、そして「現代思想入門一歩前」という言葉は、もはや恐ろしく冗語的な言葉である。


 「現代思想界」は
いつの時代どんな国にあっても混乱している。かつてそうでなかったためしはないし、これからもないだろう。そのカオスが様々な思想の沸騰する百花繚乱のメルティング・ポットであるかぎりにおいて、現代思想界の混乱状態はむしろ歓迎すべきものですらある。けれど、現代日本の「現代思想界」に見られる混乱は、あまりに奇妙だ。一方で奔放に「攻める」側にいるはずの現代思想家が不在であり、他方で執拗に「守る」側にいるはずの守旧的なアカデミシャンもいない。「日本のジラール」や「和製ボードリヤール」ならたくさんいる。ア カデミズムをいたずらに敵視しつつ幼児的な罵詈雑言を吐いて、香具師めいたラディカルな議論のほうがまっとうだが面白みのない議論よりマシだなどと究極の 選択を迫る人たち。「日本のミシェル・セール」だっているかもしれない。アカデミズムの側に組み込まれようと涙ぐましい営業活動を続けた結果、見事な「業 績」を手に殿堂入りを果たす人たち。だが、どちらの側も同じ土俵の上に立っていることには気づかない彼らは中途半端な態度で、互いにほとんどあるはずもない差異を言い立てあっている。


 「ドゥルーズ・フーコー・デリダ」の
ような存在は、 哲学アカデミズムの粋を完璧に身につけたうえで、その後ではじめて、さらにそれをはるかに凌駕する仕事を残すことができたのだということに何の不思議があ ろうか?だが、現代日本の「知識人」は、ジャーナリズムとアカデミズムを対立させ、ありもしない差異をことさらに際立たせることで互いの既得権益を確保し 続けることしか念頭にない。文壇人相手にはアカデミックな場では通用するはずもない中途半端な哲学の知識を振りかざし、アカデミシャン相手にはジャーナリスティックなフットワークの軽快さを盾にとる「批判的=批評的」態度こそが日本で思想家たりうる唯一の方途だと考えた「批評家」の影響力が大きすぎたのか。哲学にも文学にもコストパフォーマンスに見合った必要最小限の介入を行なうことで影響力を保持する術だけに長けた映画評論家の影響力が大きすぎたのか。哲学と決してフロンタルな関係を結ぶことなく、流行りの思想家たちの著作について優雅な手つきで「斜めから」横断的に語ってみせる自称「社会思想史家」の影響力が大きすぎるのか。その後、真剣に哲学を学ぶことは、現代思想をするにあたって不可欠の条件ではないかのように見なされている。


 
「真面目である必要はない。ただ真剣でさえあれば」とある思想家は言った。だが、そのことは、貧相な哲学の知識しか持ち合わせずとも流行りのテーマに流行りの道具立てで取り組むポーズをつければそれで十分「営業」できる、ということを意味しはしない。デリダの『滞留』に付された文章のタイトルは示唆的である。≪「冒頭よりも先」を読むこと≫。


 以上の注意書きが意味を持つのは、我々自身に対する自戒としてのみである。そしてその成否は成果においてのみ問われうる。