Sunday, February 20, 2005

哲学的アンソロジーの効用

大哲学者の未刊草稿や遺稿などを探し回ることを揶揄する言説がしばしば見られるが、私は一般にいかなる翻訳出版にも異議を唱える理由はないと考えている。ハイデ ガーのどんな走り書きでも、ニーチェの小紙片に書きなぐられた草稿でも、翻訳されてならない理由などない。それらを用いて優れた仕事がなされえないと考え るいかなる理由もない。ただ、それらの資料を用いたからといって自動的・必然的に大思想家の「隠された一面」がより良く照らし出されるわけではない、とい う自明の点に注意しておけばそれで十分である。

ドゥルーズ二十歳の頃の処女エッセイ「キリストからブルジョワジーへ」と二十八歳の頃のアンソロジー『本能と制度』を収めた『ドゥルーズ初期』(加賀野井秀一訳、夏目書房、1998年) もまた、まさに読み手がどのように料理するかによってその味付けを極端に異にする一冊である。ドゥルーズと哲学史と言えば、水と油の関係として思い描かれ ることが多い。例えば、彼の『記号と事件』や『ダイアローグ』における言及の仕方などを思い出せば十分であろう。だが、主著の一つである『差異と反復』序 文を思い出してみれば分かるように、ドゥルーズにおけるコラージュ技法には明らかに彼独自の哲学史観の反響が見られるのである。

アンソロジーとは、そもそもanthologiaというギリシャ語に由来し、anthosは「花」、logiaはここでは言説や著作の様々なタイプを指す。さまざまな花を集めてブーケを作るように作られた『詞華集』。

私 はすべての種類のアンソロジーが有益であるなどと主張するつもりはない。ここではただ、哲学におけるある種のアンソロジーの試みが、時として手軽な手間仕 事を超え、さらには単なる翻訳作業をも超えて、一つのレッキとした哲学的な営為となりうることを強調したいまでである。ささやかながら哲学的アンソロジーの効用を擁護することを試みたい。

アンソロジーは人の言葉を借りて語る。現代思想は手軽なコピー・コラージュの思想であるという皮肉をよく耳にするが、そのような言説には、つまるところ「自分固有の言説を語りうる」というあまりにも素朴な実在論が低意として透けて見える。

アンソロジーはまさにコピー・コラージュの発想である。そして、まさに優れたコラージュ作品が一つのれっきとした芸術作品たりうるのと同様に、優れたアンソロジーはそれ自体一つのれっきとした思想的営為たりうるのである。

そもそもコラージュを思想の現代における衰退を物語るものとして皮肉ることほど歴史的知識の欠如を曝け出したものの言い方はない。アンソロジーは最も伝統的な思想的手段の一つなのである。

 ここでは、カンギレムのアンソロジー叢書「哲学テクスト・ドキュメント」Textes et documents philosophiquesを 見ておきたい。カンギレム自身の『欲求と傾向』をはじめとして、ドゥルーズの『本能と制度』、ダゴニェの『生命と文化の諸科学』、ジャン・ブランの『意識 と無意識』、フランシス・クルテスの『科学と論理』、ロベール・ドラテの『正義と暴力』、ルイ・ギイェルミ『自由』などが収められている。

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