Wednesday, May 30, 2007

恥知らずの天国(池田浩士を讃えて)

私は一度もお会いしたことはないのだが、池田浩士さんに対しては何となく親近感と尊敬の念を抱いている。フランス思想に野沢協先生ありとすれば、ドイツ思想に池田先生あり、という感じである。

池田先生の書かれている文章の若々しさには、故・野村修氏に通じるk大教養ドイツ系の最良の雰囲気(と私には思われるもの)がある。学生と真摯に、できるかぎり対等に向き合おうとするその姿勢。

「京都大学は日本でいちばん汚い大学である。なかでも群を抜いて汚いのが総合人間学部のキャンパスで、これは世界一の汚さを誇っている」という一文で始まる、彼の「恥知らずの天国」という一文を見つけた(『総合人間学部広報』No.33, 2003年2月)。

彼はこの汚さを排除すべきものとも(昨今の大学行政の推進する清潔ファシズム)、賛美すべきもの(単なる懐古趣味の大正教養主義的反動)とも考えない。

「このキャンパスが汚いのは、そこが生きているからだ。汗や糞やニキビや抜け毛や爪の垢やカサブタやフケや絶えざるナマ傷などが、すべて生命の証しであるように、立看板やビラや貼紙や落書や騒音や鍵の破壊は、この世界一のキャンパスが生きている証左である。」

だが、汚さを汚さと自覚し、一抹の恥や慎ましさ、良心の呵責を覚えることが急速になくなりつつある。それは、幼児化した学生社会が、ますます恥知らずになりつつある日本社会――慌ててホリエモンをバッシングし、「ナントカ」還元水を批判し、農相の自殺に驚いてみせたところで、自分たちの「会社=市場経済=資本主義」至上主義を覆い隠せるはずもない――の縮小再生産に他ならないからである。

≪廊下でビラ貼りをしている数人の人物に、「せめてそんなに糊を付けないで貼ってほしい」という感想を述べたところ、「ビラ剥がしをする小母さんたちに仕事を作ってやってるんだ!」という答えが返ってきたのだそうだ。

[…]カール・マルクスは、すべてを商品と化すことによって存立する資本主義の社会がいかに人間を恥知らずにするかを、くりかえし指摘した。ここでいう恥とは、いわゆる世間体を気にする感覚のことではない。人間が自省と自己批判を失うこと、対自的な視線を喪失し、したがって対他的な視線のリアリティを獲得しえないこと、それをマルクスは恥の意識の欠落として批判したのである。

恥知らずというものをマルクスが、すべてを商品と化してしまう社会構造との関連でとらえたことに、注目せざるをえない。商品は、それが自分に買えるものであるかぎり、自分の所有物であり、自分はそれの主人である。

だから、高い授業料を自分の親が支払っており、その親は将来できるだけ高く売るべき商品として自分に投資しているのである以上、商品たる自分も、自分の予定価格にふさわしいアルバイトの収入なり親からの送金なりで、たとえばビラを作るための紙を、どれだけ買い込もうが、どれだけ使おうが、自分の勝手なのだ。自転車整頓の老人たちも清掃の女性たちも、自分が払った授業料で大学が雇ってやっているのだ。

こうして、近ごろは、汚いキャンパスに新種のカサブタがごく普通のものとなった。同一サークルのまったく同一のビラが、同じ壁面のすべてを埋め尽くして、ズラーッと張り巡らされるのである。もちろん、別のビラが貼られる余地はまったくなくなる。エコロジストなら、地球資源をどうしてくれるのだ、と言うところだろう。

[…]わたしのこのたった一枚の表現こそが人びとの心をとらえるのだ、という誇りなど、この恥知らずな大量商品には、カケラもない。あるのは、ビラを見るものの感性にたいする限りない侮蔑であり、紙を大量に買ってやらなければ熱帯雨林だけしか売るものがない某国の人間は生きられないだろう、という恥知らずな驕りでしかない。

世界一汚いキャンパスは、死んではならない。だからこそ、生きかたを考えなければならない。≫

こんな文章を書ける人間がどんどん死滅しつつある。「軽妙」で「洒脱」なエッセイを売れ筋のジャーナリズムに書きまくること、あるいは学内のことにできるかぎり我関せずを決め込んでアカデミックな業績づくりに邁進することが「大人」の学者のスタイルなのだろう。それを悪いとは言わない。私だってそうするかもしれない。ただ、私はこんな痛快な文章を書ける人を敬慕し続ける。

Tuesday, May 29, 2007

製作の地政学

監督するのも大変だけど、製作するのも大事な仕事。ソクーロフの『太陽』の製作には日本の会社が一つも入っていなかった(はず)。製作の地政学というものがあり、その中で戦っているのだ。

我々の業界も同じ。外国人思想家・研究者を招いたシンポジウムや講演会を聴くとき、中身もさることながら、どんな風に「製作」されてるのかといったことにも注目する必要があるのかもしれない。

≪河瀬監督は「これまでカンヌで育てられて、フランスから世界配給してもらっていたから、最初から一緒にフランスと手を組んで映画を作ってみたかった。それで昨年、脚本を持って直談判。そこから、フランスで半分、私が日本で半分資金集めをする、という具合に話が進みました」と、製作の苦労を語ってくれたわ。多々超えてきた苦労が実を結んで、今夜の公式上映。感無量よね~。≫(Masamichi Yoshihiro, 【カンヌ映画祭レポートvol.37】『殯の森』河瀬監督の記者会見で感無量)

ちなみに、「制作」と「製作」の違いについて。演劇畑アニメ畑から一例ずつ。

Saturday, May 26, 2007

がんばる地方の国立大…しかし基準は金しかないのか

経済の論理に対抗するのに経済の論理をもってせねばならない時代風潮。


<地方国立大>経済効果は400億~700億円 文科省調査
5月24日8時56分配信 毎日新聞

 地方国立大学が地元に及ぼす経済効果は400億~700億円に上ることが文部科学省の調査で分かった。プロ野球・楽天イーグルス(97億円)よりも4~7倍の波及効果があり、同省は「地方国立大は、教育だけでなく、経済的にも地域に貢献している」と指摘している。

 調査は今年3月、地方国立大の役割を経済的な観点から実証するため、財団法人・日本経済研究所に委託して初めて実施した。

 当該県への経済効果は
▽山口大667億円(雇用創出数9007人)
▽群馬大597億円(同9114人)
▽三重大428億円(同6895人)
▽弘前大406億円(同6774人)。

鹿児島県での九州新幹線の部分開業(166億円)や九州地方のJ1チーム(24億円)よりも経済効果があるとしている。

 国立大をめぐっては、収入の約45%を占める運営費交付金の配分ルール見直しが検討され、研究実績に基づき配分した場合、全国87大学のうち74大学で交付金が減少するという財務省試算がある。文科省や国立大は地方国立大の統廃合につながると危機感を募らせており、経済効果をアピールしたとみられる。【高山純二】

がんばる地方の国立大 経済効果670億円 楽天の7倍にも
5月25日8時0分配信 産経新聞

 山口大や弘前大など地方の中堅国立大学が地元経済に与える経済効果は年間400億~700億円に上ることが、文部科学省の試算で分かった。プロ野球楽天イーグルスがもたらす経済効果をはるかにしのぐ数字といい、文科省は「国立大が地方経済に及ぼす影響は極めて大きい」と強調。交付金配分方法の見直しを進める財務省の方針に反発している。

 試算は、生産誘発や雇用創出などについて地方の国立大が地元の県経済に及ぼす影響を検証するもので、文科省が日本経済研究所に委託し、学生数が7000~1万人の弘前大(青森)、群馬大、三重大、山口大の4大学について分析した。

 山口大の県経済への経済効果は年間で総額667億円。内訳は学生らの地元スーパー利用など商業分野が115億円、賃貸アパート契約など不動産分野が90億円など。群馬大は597億円、三重大は428億円、弘前大も406億円の経済効果があった。

 文科省によれば、こうした経済効果は「楽天イーグルスが宮城県に及ぼす97億円の4~7倍、サッカーJ1大分トリニータが大分県に及ぼす24億円の17~28倍に達する計算」という。

Friday, May 25, 2007

信頼関係と完ぺき主義

海外の研究者と「交流」という名の表層的で儀式的、結局のところ非生産的なつきあいをしたくなければ、どうすればいいのか。「信頼関係構築に必要なのは?」(奥田秀樹、「野茂とは違う松坂の目指す道」、2007年5月21日)

≪バリテック自身は、捕手としての豊富な経験から、信頼関係は一朝一夕ではできないと分かっていて、キャンプ終了時点でこう言っていた。「大輔との信頼関係はできたのか?」 と質問したのだが、

「信頼関係は意味のある試合(公式戦)で初めてつくられるもの。キャンプの期間は一緒にいる時間が長いから、互いのことを知り合うチャンスだし、投手について学ぶ貴重な機会だ。でも、キャンプで信頼関係を構築することはできない」

 関係構築のプロセスについてはこう説明した。 「大切なのはAGREE TO DISAGREE(互いに意見が違うことを認め合うこと)なんだ。重要な試合で、どうやって打ち取るかで意見が食い違ったとき、互いの考えを説明し合うことで、より相手を理解できる」

 その上で、メジャーではバッテリーの主導権を握るのは投手だという。 「投手と捕手は違う角度から野球を見ている。意見が食い違うのは当然。私の役割は投手が打者を打ち取る手助けをすること。最終的に何を投げるか決めるのは投手なんだ」≫

「公式戦」とは何に当たるのか、なぜ私は執拗に英・独・仏語でpublicationすることを薦めるのか。

レセプションなどで有名な学者の周りでとにかく気の利いたことを喋ろうとする人がいる。有名人のHPやブログやら何やらに気の利いたことを書き込もうとする人がいる。感激にのぼせてしまった若手ならまだしも。そういったものは「オープン戦」「練習試合」ですらない。キャンプで信頼関係を構築することは出来ない。ましてや、見ず知らずのプロとうまいキャッチボール(会話とは言葉のキャッチボール)をしたからといって、何がどうなるというものでもない。

逆に、いたずらに有名人に噛み付く人がいる。自分の信じるところを述べるのはもちろん構わない。けれど、噛み付くために「信じるところ」を急造・乱造してしまう本末転倒の人も見かける。大切なのは、「重要な試合」で「勝負」に勝つことだ。この場合、勝敗が論戦相手に議論で「勝つ」ことを意味しないのは明らかである。勝つというのは、論戦相手と「AGREE TO DISAGREE」しつつ、議論の本質において共に前進することにほかならない。



完璧主義とは、完璧なものが書けるようになるまで発表をしないということではない。その都度、自分の置かれた状況の中で、前回よりもさらに高いパフォーマンスを発揮できるように絶えず工夫する姿勢のことを言うのである。教授や助教授になっても、同じことである。

≪松坂大輔が突如制球を乱し3連続四球などで自滅を繰り返していたとき、レッドソックスの監督、コーチ、捕手などは、「大輔は完ぺき主義過ぎるところがある、ボールに力があるんだから、自信を持ってストライクゾーンに投げ込めばいい」 と言っていた。正直、筆者もそう感じた。

 松坂はちょっと困ったように「別に自分のボールに自信を持てなくなっているわけではないんですけど」と話したものだった。

 そんな中で一人だけ違うことを言う人がいた、エースのカート・シリングである。完ぺき主義者であることがピッチングの妨げになっていないかと尋ねると、こう言い切ったのだ。

「徹底的に完ぺきを求めていくことで、偉大な選手と、普通の選手の違いが出てくる。偉大な選手は完ぺきにできないことにいら立つが、そういう考え方だからこそ、偉大な選手になれる。(松坂は)きょうは悔しくて眠れないだろうけど、次の登板にきっちり合わせてくると思う」≫

Thursday, May 24, 2007

脱構築とは制度の脱構築である

脱構築とは常にすでに制度の脱構築である、と以前述べた。デリダが以下の言葉を一言も語っていなかったとしても、やはり脱構築の本質は、枠組みの、パレルゴンの、限界=極限の脱構築にあるわけだが、ディディモと呼ばれるトマスは世に多くいるので。。

≪そのモデルも、概念も、問題も、空から降ってきたわけではなく、それらは、諸々の様態に従って、ある限定された瞬間に形成されたものである。

哲学の教授資格試験でさえも、一つの歴史と体系を形成している。

幾つかの特定的な中継地点、例えば、フランスにおけるいわゆる哲学教育の中継点、哲学のプログラムの、哲学の試験やコンクールの形態の、哲学の舞台や哲学のレトリックの制度の中における中継点を考慮に入れる必要がある。

ヴィクトル・クザンは、フランスにおける大学と、その哲学に関する制度、そして今も我々がその住人となっている教育の全構築物の構築にあたり、決定的な役割を果たし、少なくともそれを代表する人物となった。私は、ここでは諸々の導きの糸の一本としての固有名詞(クザン)によって、一つの脱構築の必然性を命名するにとどめる。

その脱構築の論理の帰結に従えば、それは、哲学素の、意味論的であると同時に形式的な、内在的構築のみならず、哲学に対し誤ってその外的な住居として割り当てられるであろうもの、哲学の訓練の外在的な諸条件をも攻撃するのである。つまり、哲学の教育の歴史的形態、この教育制度の社会的、経済的、あるいは政治的構造をもである。

脱構築が一つの分析や一個の「批判」と常に区別されるのは、それが言説やシニフィアン表象だけでなく、堅固な構築物、「物質的」な制度に関わるからである。そして、関与的であるために、それは、哲学的なるもののいわゆる「内的」な配列が、教育の制度的形態と条件と、(内的にして、しかも外的な)必然性によって、連接するその場所において、可能な限り厳密な仕方で、作用するのである。

制度の概念そのものが、同じ脱構築的な処理を蒙るところまで。≫(デリダ、『絵画における真理』)

Tuesday, May 15, 2007

熱視線

たぶん日本代表のサッカーを少しでも見ている人なら賛成してくれると思うのだが、監督がジーコからオシムにかわって最大の違いは、いわゆる「国内組」への熱視線だろう。

ジーコは国内組がいくら健闘しようが、海外組の調子が悪かろうが、後者に全幅の信頼を置き、その序列を頑として変えなかった。オシムは、積極的に国内視察を行ない、就任一年目の去年から今年にかけて、長らく一度も海外組を召集せず、国内組のみで代表戦を戦った(今は混合)。

これで、Jリーグ内での代表選抜への競争意識が活性化したことは疑い得ない。頑張れば自分にもチャンスが回ってくるかもしれない。名前ではなくプレーを見ているという基準が明確化すれば、選手の目の色も変わってくる。

研究者も同じである。頑張っている若手にチャンスを与えるとは、「鍛えてやる」というだけではなく、生き残りのために業績作りのチャンスを与えるということである。大学の紀要に書かせるという以上のチャンスを、である。それを見つけてくるのもまた、一定以上の年齢の研究者の任務なのだろう。

例えば、昨年のブランショ国際コロックは、優秀な若手研究者に、海外の研究者の前での発表の機会を与えていた。いずれ(今年はまだ無理だが)、我々の領域でもこういった機会を少しずつ増やしていければと思う。

ただ、「フランス語を勉強しろ」とお題目のように唱えても、駄目なのだ。実際に目の前で示して見せないと。海外リーグの試合が日本で見られるようになったこと、海外の選手と対等に渡り合う日本人選手の姿を見ることが、国内で頑張る若手選手の意識にどれほどの顕在的・潜在的な影響を与えたことか。

業績作りはたしかに目的化、「お仕事」化してはいけない。札束で頬をひっぱたくがごとき、悪弊の師弟関係も復活させるべきではない。だが、綺麗ごとで人は動かないというのもまた厳然たる事実だ。魅力あるチャンス・メイキングと連動させてこそ、「鍛錬系」は真に駆動しうるのではないか。

***

<サッカー日本代表>オシム監督、裾野拡大で近藤らに視線毎日新聞 - 2007/5/14 21:56

 サッカー日本代表候補の合宿が14日夜、千葉県習志野市内で始まった。4月に続き、強化目的の3日間の短期キャンプで、最終日には大学生チームとの練習試合も組まれている。オシム監督は裾野拡大をテーマに挙げ、23歳のDF近藤(柏)、左サイドのスペシャリストである村井(磐田)らに注意深い視線を注いだ。

Monday, May 14, 2007

昨日

昨日の第2回「フランス哲学セミナー」では、十年ぶりにdaさんとお会いすることが出来て、懐かしくも嬉しかった。ちょっとからかいすぎたかも。ごめんなさいね。

内容以外に良かった点。なるべく読み上げでなく、話し言葉でまとめるという方針の採用。私も以前述べた「聴診」ということの重要性が強調されたことはよかった。

8月の第4回、ハクロンの中間発表で手を挙げた。かなり逡巡したのだが、やれるだけのことをやって叩かれたほうがいい、と覚悟を決めた。なんとはなしに漂っている期待が幻想であったと判明するなら、それはそれで仕方がない。今の自分の実力を厳しく冷静に見つめ続けること。

私的な理由のほかに、博士課程以上の人、先生方も発表することが望ましい、といった組織上の理由もある。つまり、叩く人、叩かれる人の役割分担をフレキシブルにしておかないと、すぐに学会・研究会的なヒエラルキーが出来上がってしまうおそれがあるので。。



檄文、ちょっと顔をしかめる人もいれば、もっとやれと言ってくれる人もいたり。まあ、バランスに気をつけつつ、でも言うべきことは言う、という今までどおりのスタンスで続けていきたいと思っています。

蓄積疲労に苦しみつつも、来週の学会発表に向けて鋭意努力。

Wednesday, May 09, 2007

反響

このあいだのトゥールーズ篇の反響。きわめて好意的。でも問題点も鋭く指摘してくれてる。そうなんだよね、だから散々フランス側の主催者に言ったんだけど。「日本側が議論に少しでも積極的に参加できるよう、取り計らってくれ」って。何度かは聞いてくれて、フランス人研究者の原稿をコピーしてくれたけれど、そもそも完成原稿を持ってきてない人たちもいたし、こちらも皆多かれ少なかれよそ者としての気兼ねがあったり、長旅で疲れていたりと(トゥールーズは遠かった…)、積極的な攻めは出来なかった。この反省を次回、日本篇では少しでも活かしたい。

Tuesday, May 01, 2007

抵抗の核

近況。

1)MLに檄文的なことを書くのは控えなさい、と少し年上の方にたしなめられる。書き方に気をつけないといけないのは確かなのだが、他方で、不言実行の人と有言実行の人がいるのも事実なので。。私が苛立ち、打破したいと願っている停滞状況自体によって規定されている「抵抗の核」が問題なのであってみれば、私の言動に苛立つ人がいるのはむしろ当然ではないか、という気もするのだが。。

2)日仏哲学会用の論文、およびトゥールーズ篇の発表原稿、それぞれひとまずの完成稿を送る。トゥールーズ篇参加者の論文は随時掲載されているので、興味のある方はどうぞ。

3)あと三週間をきった仏文学会だが、隠喩論文、まだ何も書いていない。一応、骨子は頭にあるので、これを書いていけばいいのだが、早くやらないと。書いているうちにさらにいいアイデアが浮かぶのだが、残念ながら時間切れというのがいつもの悪いパターンなので、改善していかないと。

4)十月・日本篇の準備、着々と進んでいる。海外から9人(10人)、日本から9人のガチンコ対決。お客さんお呼びし、お話を謹聴して「フジヤマ、ゲイシャ、スキヤキ」(スター扱いで接待)はもういいよ。やりたいのは真剣勝負。

5)十一月にコレージュ・ド・フランス主催で行なわれる『創造的進化』シンポジウムのワークショップCFPが出た。関心のある方は、私まで。

6)ハクロンは??これが私にとって一番の「抵抗の核」なのだ。。