私は一度もお会いしたことはないのだが、池田浩士さんに対しては何となく親近感と尊敬の念を抱いている。フランス思想に野沢協先生ありとすれば、ドイツ思想に池田先生あり、という感じである。
池田先生の書かれている文章の若々しさには、故・野村修氏に通じるk大教養ドイツ系の最良の雰囲気(と私には思われるもの)がある。学生と真摯に、できるかぎり対等に向き合おうとするその姿勢。
「京都大学は日本でいちばん汚い大学である。なかでも群を抜いて汚いのが総合人間学部のキャンパスで、これは世界一の汚さを誇っている」という一文で始まる、彼の「恥知らずの天国」という一文を見つけた(『総合人間学部広報』No.33, 2003年2月)。
彼はこの汚さを排除すべきものとも(昨今の大学行政の推進する清潔ファシズム)、賛美すべきもの(単なる懐古趣味の大正教養主義的反動)とも考えない。
「このキャンパスが汚いのは、そこが生きているからだ。汗や糞やニキビや抜け毛や爪の垢やカサブタやフケや絶えざるナマ傷などが、すべて生命の証しであるように、立看板やビラや貼紙や落書や騒音や鍵の破壊は、この世界一のキャンパスが生きている証左である。」
だが、汚さを汚さと自覚し、一抹の恥や慎ましさ、良心の呵責を覚えることが急速になくなりつつある。それは、幼児化した学生社会が、ますます恥知らずになりつつある日本社会――慌ててホリエモンをバッシングし、「ナントカ」還元水を批判し、農相の自殺に驚いてみせたところで、自分たちの「会社=市場経済=資本主義」至上主義を覆い隠せるはずもない――の縮小再生産に他ならないからである。
≪廊下でビラ貼りをしている数人の人物に、「せめてそんなに糊を付けないで貼ってほしい」という感想を述べたところ、「ビラ剥がしをする小母さんたちに仕事を作ってやってるんだ!」という答えが返ってきたのだそうだ。
[…]カール・マルクスは、すべてを商品と化すことによって存立する資本主義の社会がいかに人間を恥知らずにするかを、くりかえし指摘した。ここでいう恥とは、いわゆる世間体を気にする感覚のことではない。人間が自省と自己批判を失うこと、対自的な視線を喪失し、したがって対他的な視線のリアリティを獲得しえないこと、それをマルクスは恥の意識の欠落として批判したのである。
恥知らずというものをマルクスが、すべてを商品と化してしまう社会構造との関連でとらえたことに、注目せざるをえない。商品は、それが自分に買えるものであるかぎり、自分の所有物であり、自分はそれの主人である。
だから、高い授業料を自分の親が支払っており、その親は将来できるだけ高く売るべき商品として自分に投資しているのである以上、商品たる自分も、自分の予定価格にふさわしいアルバイトの収入なり親からの送金なりで、たとえばビラを作るための紙を、どれだけ買い込もうが、どれだけ使おうが、自分の勝手なのだ。自転車整頓の老人たちも清掃の女性たちも、自分が払った授業料で大学が雇ってやっているのだ。
こうして、近ごろは、汚いキャンパスに新種のカサブタがごく普通のものとなった。同一サークルのまったく同一のビラが、同じ壁面のすべてを埋め尽くして、ズラーッと張り巡らされるのである。もちろん、別のビラが貼られる余地はまったくなくなる。エコロジストなら、地球資源をどうしてくれるのだ、と言うところだろう。
[…]わたしのこのたった一枚の表現こそが人びとの心をとらえるのだ、という誇りなど、この恥知らずな大量商品には、カケラもない。あるのは、ビラを見るものの感性にたいする限りない侮蔑であり、紙を大量に買ってやらなければ熱帯雨林だけしか売るものがない某国の人間は生きられないだろう、という恥知らずな驕りでしかない。
世界一汚いキャンパスは、死んではならない。だからこそ、生きかたを考えなければならない。≫
こんな文章を書ける人間がどんどん死滅しつつある。「軽妙」で「洒脱」なエッセイを売れ筋のジャーナリズムに書きまくること、あるいは学内のことにできるかぎり我関せずを決め込んでアカデミックな業績づくりに邁進することが「大人」の学者のスタイルなのだろう。それを悪いとは言わない。私だってそうするかもしれない。ただ、私はこんな痛快な文章を書ける人を敬慕し続ける。
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