脱構築とは常にすでに制度の脱構築である、と以前述べた。デリダが以下の言葉を一言も語っていなかったとしても、やはり脱構築の本質は、枠組みの、パレルゴンの、限界=極限の脱構築にあるわけだが、ディディモと呼ばれるトマスは世に多くいるので。。
≪そのモデルも、概念も、問題も、空から降ってきたわけではなく、それらは、諸々の様態に従って、ある限定された瞬間に形成されたものである。
哲学の教授資格試験でさえも、一つの歴史と体系を形成している。
幾つかの特定的な中継地点、例えば、フランスにおけるいわゆる哲学教育の中継点、哲学のプログラムの、哲学の試験やコンクールの形態の、哲学の舞台や哲学のレトリックの制度の中における中継点を考慮に入れる必要がある。
ヴィクトル・クザンは、フランスにおける大学と、その哲学に関する制度、そして今も我々がその住人となっている教育の全構築物の構築にあたり、決定的な役割を果たし、少なくともそれを代表する人物となった。私は、ここでは諸々の導きの糸の一本としての固有名詞(クザン)によって、一つの脱構築の必然性を命名するにとどめる。
その脱構築の論理の帰結に従えば、それは、哲学素の、意味論的であると同時に形式的な、内在的構築のみならず、哲学に対し誤ってその外的な住居として割り当てられるであろうもの、哲学の訓練の外在的な諸条件をも攻撃するのである。つまり、哲学の教育の歴史的形態、この教育制度の社会的、経済的、あるいは政治的構造をもである。
脱構築が一つの分析や一個の「批判」と常に区別されるのは、それが言説やシニフィアン表象だけでなく、堅固な構築物、「物質的」な制度に関わるからである。そして、関与的であるために、それは、哲学的なるもののいわゆる「内的」な配列が、教育の制度的形態と条件と、(内的にして、しかも外的な)必然性によって、連接するその場所において、可能な限り厳密な仕方で、作用するのである。
制度の概念そのものが、同じ脱構築的な処理を蒙るところまで。≫(デリダ、『絵画における真理』)
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