Tuesday, July 07, 2009

教育社会(七夕に)

京都教育大学の事件報道:大学とメディア、双方のあり方に疑問」という記事を見つけた。多くの点で賛同できる。例えばこれ。

《日本では、メディアが「謝罪」の画にこだわります。
メディアの側は、「そうしないと世間が納得しないから」と言いますが、本当はそうしないと映像的にオチをつけられないからでしょう。
だから、「世間を騒がせたことに対して、謝罪はないんですか!?」なんて、いまひとつ意味が分からない要求と共に、臆面もなくマイクを突き出せるわけです。》

ただ、個別大学の個々のコメントや個別メディアの個々の対応に疑問はあっても、事態を理解する(intelligere)にはその視点では十分ではない。なぜメディアは謝罪の絵にこだわり、なぜ謝罪側は結局のところ「謝罪」「責任」をとらねばと感じるのか。問題はそこにある。



世間では日々数々の犯罪が起こっている。大学は公的性格をもつ以上、何か事件が起きれば、その「社会的責任」が厳しく問われるのは当然のことである。

会社員が犯罪を犯したとしよう。その社員の働く企業が有名企業であった場合、すなわち「ニュース」になりやすい場合は必ず、「社会的責任」から、トップの謝罪、組織としての対応が問題とされるだろう。

だが、先に取り上げたような度を越した犯罪(準強姦)の場合、トップの辞任といった責任問題に発展するだろうか?事件の規模や性格によってはそういう場合もないとは言えないが、考えづらい。なぜか?問題行動を起こした「原因」が、社内教育の欠如ないし不備にのみある、と断定できないからであろう。

社内でのセクハラなどであれば、「よりいっそう(社内)教育を徹底し、再発防止に努めて参ります」と言えるが、度を越した異常な犯罪――例えば、テレビ局の社員が同僚に爆発物を送りつけた事件が少し前にあったが――について、トップは謝罪すべきだろうか。企業は責任をとれるだろうか、とるべきだろうか?コンプライアンス研修会と心理カウンセリングの社員への周知をさらに徹底するくらいが関の山であろう。

大学だけでなく、教育界だけでもなく、あるいは官公庁だけでもなく、おそらく現在の社会情勢においては、責任がとれるか否か、取るべきであるか否かにかかわらず、「よりいっそう(社内)(学内)教育を徹底し、再発防止に努めて参ります」という言葉が、すべての社会構成員に対して、一般的に求められているのだ。

まさかいい歳をした大人に「腹がたっても、爆発物を送りつけてはいけません」とか、大学生に「強姦は重罪です」としっかり諭すことが真に有効な防止策だとは思えないし、効果を上げる部分よりむしろ非効率な部分のほうが圧倒的に多いと思うが、それでもなおエクスキューズとしての「コンプライアンス研修会」と「心のケア」は増える一方であろう。なぜなら、それをしていなかった場合にその組織は「責任」を問われるからだ。

要は、対外的なエクスキューズとしての〈教育〉が、至るところで求められているわけだ。問題は、この〈教育〉の内容ではなく、その本質である。

日本は十数年前、「訴訟社会アメリカ」を嗤っていた。熱いコーヒーで訴訟になる国、濡れたプードルを電子レンジで乾かそうとして訴訟になる国、と。そして、今、日本製のありとあらゆる電子機器の説明書には、過剰なほど「注意書き」が溢れている。ありとあらゆるお節介な看板やポスター、電車やバスの車内放送は、ますます過剰になる一方だ。

逆説的なことだが、これほど教育の不足が叫ばれながら――「ゆとり教育」の放棄――、「教育社会」なのだ。生涯教育の時代に、人間はすべて、いつまでも陶冶の対象である。

どこでも教育が強調されるが、それはエクスキューズとしての教育である。外部からの指摘に備えて行なわれる教育、教育される対象よりも本当は目が外部からの視線に行っている教育、それが管理社会で行なわれる一般的な教育ではないか。これが先に言った〈教育〉の本質であるように思われる。

「モンスターペアレント」とは一部の異常な親ではなく、「クレイマー」の一種であり、このようなエクスキューズ社会の産物、「教育社会」の鬼子なのだろう。

教育にとって困難な時代である。

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