今年の結婚論講義は、毎回、
1)重要な思想家を一つのイメージで印象付け、
2)その思想家の生きた時代と生涯を、彼の思想と関連づける形で簡単に紹介し、
3)その思想家の基本的な思想を概説し、
4)結婚論がその思想体系に占める位置や意義、ならびにその結婚論の概説
という形で進行したので、結婚論自体としては、それほど深い次元までは行けなかった。これはジレンマで、結婚論講義としてはもちろん4が最重要なのだが、2や3の基本的な知識が前提としてないと、インパクトも薄れてしまう。そこで、2や3に時間をかけた結果、4がいつも駆け足になるのである。
来年度は、思い切って4を前面に押し出してみることにしようか。「ヘーゲルって結婚の思想家だと思ってた」と学生に言われることを恐れないならば、の話だが…。
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結婚論の最後二回は、ドゥルーズ=ガタリとデリダ。来年あたり仏文学会で「結婚の形而上学とその脱構築(デリダの場合)」に関する発表をしてみようかな。
前にも書いたが、結婚論の重要な論題の一つに「誓い」や「約束」の問題がある。それは結婚の哲学が時間の哲学でもあるからだ。というのも、「誓い」や「約束」の問題とは「不可逆性」の問題だからである。東さんは『絵葉書』を情報伝達経路、コミュニケーションの話として読み解いたが、私はこの観点から読み解けるという直観を持っている。
《オックスフォードのよきスコラ哲学に従えば、約束は約束することしかできない。到達すること、自分の約束を果たすに至ることを約束することは決してない。可能なら約束を果たすに至るよう全力を尽くすことを約束するだけだ。
人は到達することを約束するのではない。到達する意図があること、到達するために自分の能力のすべてを傾注することを約束するのだ。もしそれが私の能力のうちにないために、また私のうちの、あるいは私の外のあれやこれ、あれこれの人が私の到達を妨げてしまったために、私が到達するに至らないとしても、私は自分の約束に背いたわけではない。私は相変わらず到達を望んでいる。だが、私は到達するには至らないのだ。
私は一貫して自分の約束=契約に忠実であろうとしてきた。君はこう言うだろう、そんなのはおよそ真面目な話とはほど遠い、オックスフォードの人間は不真面目だ、そういう「私のうちの、あるいは私の外の」とかいうのは恐ろしく曖昧か偽善的だ、可能とか意図などという観念は失笑を誘うだけだ。あなたは自分がその一語たりとても信頼を置いていない言説から論拠を引き出している、と(いや、いや、信頼している――他でもない真面目さの名において、オックスフォードの人々は話しているのだ[…])。
それに約束、誓約は真面目さに属するのだろうか、それは真面目なのだろうか、言ってごらん? それは真面目さより、はるかに深刻で危険で、はるかに軽く、より多くのものからなっている。だが真面目ではない。》(デリダ『絵葉書』)
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