河本敏浩の『名ばかり大学生――日本型教育制度の終焉』(光文社新書、2009年12月)を読んだ。
光文社新書にはもちろん読みごたえのあるものも存在するが、総じて書き方が汚い。読後感があまり後味のよいものでない。この本もその点は例外ではない。
ただし、著者の肩書きが予備校講師・「全国学力研究会理事長」であり、学研で教材開発をしていることもあるのだろう、本書の良さは、中高生に対する眼差しの柔らかさにある。
著者の出身地である愛知県の教育政策に関する激越な批判を含む分析は、1967年生まれの著者の個人的な体験を背景としており、最も読み応えがあった。
《80年代に中学校生活を送った者は、中学一年生の夏を経て、友人が急激に不良化していく姿は、本人の資質だけでなく、何か別の社会的要因があることを十分にうかがわせた。現在、かつて不良化した友人が、ごく普通の中年と化し、社会人として当たり前に働いている姿を見るにつけ、そこに何か独特な磁力が働いていたのではないかという思いを強くする。》(63-64頁)
著者の図式化は明快である。根本的な仮説はこうだ。「進学に関わる不公平な圧力や、環境の激変が子供を襲うと、子供は荒れる」(81頁)。より正確に言えば、
「日本の戦後教育においては、進学競争、学力競争の唐突な変化に見舞われると、その最も激しいインパクトを受ける世代の子供たちが必ず反社会的な行為に走るのだ。[…]大人の側が「競争」の設定を誤り、いきなり競争が激化すると、日本の子供は必ず暴れ出すのだ」(62頁)。
この図式をもとに著者は、中高生関連の二つの大きな社会現象の説明を試みる。80年代の「校内暴力」と、90年代の「援助交際」である。
(1)校内暴力
1970年代前半まで日本の各所に名門商業高校、名門工業高校が存在していたが、1970年から75年の間に大きな地殻変動が起きて、普通科進学熱が高まり、全国の実業系高校の「権威」が失墜した。これにより多孔的な構造――たとえば、中学を優秀な成績で卒業し、工業高校に進み、よい成績を修め、終身雇用の製造業の企業に入社するというライフコース――が選択肢を狭められ、「試験の成績が優秀だから普通科、そうでなければ工業か商業」という一つの物差しによる評価が確立する。
普通科高校への進学率が高まると、競争が激化し、当の普通科高校の格付けが微細化する。いわゆる「偏差値」は、この序列の細分化を背景に社会に浸透したのであり、競争の激化に対する社会的な防御反応として学校の外側に現われたのが「塾」である。そして、「偏差値」からも「塾」からも取り残されるという経験に初めて遭遇した世代の成績下位層において、「校内暴力」が劇的な形で噴出したのである。
(2)援助交際
1990年代前半まで日本には多くの短大が存在していたが、女性の社会進出が叫ばれ、女子も進学先を四年制大学にシフトした結果、女子の短大進学意欲が急降下し、定員割れが続出した。これにより多孔的な構造――「短大というのは女子にとって格好の緩衝地帯で、勉強ができる/できない、という単純な区分が通用しない不思議な場だった」(86頁)――が選択肢を狭められ、「試験の成績が優秀だから四大、そうでなければ短大」という一つの物差しに よる評価が確立する。
大学進学を目指す女子高生は、突然、偏差値ランキング表の世界、つまり男子と同じ受験競争の世界に放り込まれたのである。まさにルールの変更である。このとき、偏差値戦争の最も強烈なストレスをもろに、そしてはじめて食らったのが、私立女子高に通う高偏差値の子といっても、「伝統名門校」に通う女子ではなく、短大という逃げ場をなくした「リニューアルして商業科を廃止した新興名門校の進学科」であった。
間違えないようにしよう。十代の少女の売春なら昔から存在した。2010年現在行われているのも「単なる売春」にすぎない。「援助交際」と呼べるのは、「まさに第一期(1993~1995年)だけ、限定された時期に属した女子だけの「荒れ」」なのである。
《「援助交際」の特異さは、自分が将来は大学に行き、普通に就職するだろうと考えている高校生がいっせいに自らを「売った」ところにある。単なる売春とは異なる独特の感覚が、この1990年代の女子高生の「荒れ」にはあった。[…]近年の女子高生は、すでに自らが大学偏差値ランキング表に組み込まれる存在だということを幼い頃から自覚している。彼女たちは、上手くいくかどうかは別として、援助交際世代の女子とは異なり、「学歴」に対してある一定の覚悟を有しているのである。
逆に「援助交際」世代の女子高生は、心の準備がなされていない段階で、急激に高まった四年制共学大学への進学圧力に襲われた。[…]「援助交際」は、この短大の威信低下の時期に現われた特異な現象と言えるものだった。》(88-89頁)
「援助交際」は、《「団塊世代の親の規範の緩さ」にでもなく、「近代化の歪み」にでもなく、進学と学力形成の中で生じた、典型的な「子供の荒れ」と考えるべきである》(87-88頁)という宮台真司批判はなかなか説得力があるように思うが、どうだろうか。
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他方で、本書の欠点(であるように私に思われるもの)は、大学観の薄さである。特に、「偏差値下位の私立大学」(55頁)は問答無用で切り捨てられているように見えて仕方ない。
《大学の教員には高校批判、中学校批判、小学校批判、家庭批判は許されない。そもそも何人中何番までが合格と定める試験を続けているのは当の大学である。こういった試験の下で定員を維持、あるいは拡充すれば、自らの教え子たる大学生のレベルは下がって当然である。大学の教員がため息まじりに嘆く、目の前の大学生の基礎学力の欠如については、少なくとも自業自得という他ない。》(36頁)
なるほど。では、企業のトップだけでなく、新人研修や人事の担当者だけでもなく、およそ会社員であるかぎり(その会社の在り方に原理的には介入できるはずだから)、新人社員の質の低さを嘆くことは許されない、ということになる。一見弱者(実はマジョリティ)の側に立つこの手の議論は、大向こう受けはするだろうが、他人の「愚痴」を無暗に咎める類のものだ。
また、「偏差値下位大学」では、《とにかく「箱」の維持のみが優先され、その中身はどうでもよい状態になってしまう》(38頁)というのもずいぶんと一般化が過ぎるように思う。我々の大学のように、我々なりに知恵を絞り、己を絞って努力しているところもずいぶんあるだろうに。私の印象では、「校内暴力」や「援助交際」に巻き込まれた少年少女への優しい眼差しと、大学教員への辛辣な眼差しは表裏一体のものである気がする。だが、評論であり、分析である以上、バランスはとってもらいたい。
「子供に対する罵倒や文句は耳目を集めるが、子供を思う地道な活動は、人知れず取り組まれている。私たちが見ようとしていないところに、可能性は宿っているものである」(192頁)。
この河本氏自身の言葉を借りて、こう言い返させてもらおう。
「大学(特に「偏差値下位の私立大学」)に対する罵倒や文句は耳目を集めるが、学生を思う地道な活動は、人知れず取り組まれている。私たちが見ようとしていないところに、可能性は宿っているものである」と。
間違った情報が右から左に流通しても、本が売れればそれでよいというセンセーショナリズムに則った書き方は、自分の批判している当の対象――勉強しないまま入学し卒業していく「名ばかり大学生」の「偏差値下位の私立大学」による縮小再生産――に驚くほどよく似ている。
2 comments:
九州産業大学は好い大学で、その先生が自分の大学と学生の悪口を言ふのは傍で見てられない。
東大生も世界のレヴェルで言へば精々ギムナジウムに入学した学生程度の段階で自分で考へて自分の言葉で表現するといふ基本的なことが出来てない。etudierではなくapprendereの段階。
藤田先生もリールで好く判つたと思ふけど。
いつも楽しく観ております。
また遊びにきます。
ありがとうございます。
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