後半の冒頭で、私は本書の私立大学観を批判し、こう述べています。
本書の欠点(であるように私に思われるもの)は、大学観の薄さである。特に、「偏差値下位の私立大学」(55頁)は問答無用で切り捨てられているように見えて仕方ない。そして、こうも述べています。
「偏差値下位大学」では、《とにかく「箱」の維持のみが優先され、その中身はどうでもよい状態になってしまう》(38頁)というのもずいぶんと一般化が過ぎるように思う。我々の大学のように、我々なりに知恵を絞り、己を絞って努力しているところもずいぶんあるだろうに。私の印象では、「校内暴力」や「援助交際」に巻き込まれた少年少女への優しい眼差しと、大学教員への辛辣な眼差しは表裏一体のものである気がする。だが、評論であり、分析である以上、バランスはとってもらいたい。したがって、お手数ですが、私の雑文(長いですが)をもう一度、特に後半部分だけでもお読みいただけますか。私の言葉に舌足らずな点があったかもしれません。そうであるならば、お詫びをするほかありません。ですが少なくとも、私が決して自分の大学を貶めようなどということだけはしていないことがお分かりいただければ幸いです。
1 comment:
『偏差値』といふクリシェが気になつてロクに読みもせずに失礼しました。
偏差値は記憶の多寡の指標に過ぎず、その内容が多くても少なくても、肝心なのは自分の言葉で表現する能力です。
偏差値が高いといはれる大学の学生も学校教育で身にづけるべき自分で研究し適切に表現する能力に甚だしく欠ける。
それは偏差値が高いとみなされる東大教授が世界水準の学問の世界では問題にもされないことに端的に現れます。
寧ろ地道に外国で学んだ偏差値の低い大学の教師の方が教へ研究する能力は高い。
問題は大学以前の日本の高・中等教育にあるのですが、それに相応しい教師を育てられる大学院教師が一体何人居るのでせうか?
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