Saturday, October 16, 2010

大学教員の「仕事」

silvalibrorumさんのブログにあった記事「日本の研究者、内向きに…海外派遣10年で半減」。先日のノーベル賞受賞者の対談などでも「学生が内向きに…」という話があったが、森本さんのおっしゃる通りである。

それは別に海外への挑戦云々もさることながら、大学が端的にギチギチな体制を敷くようになった──授業が増え、補講を強制し、会議だらけになった──とい うことと相関しているように思うのだけど、違うのだろうか。こんなに業務だらけで夏休みも浸食されてどうやって海外へ行けというのか。文科省も支援策など というのなら、こういう大学の体制自体について考えてもらってほしいものだと思う。正直、「分身の術」でも身につけないともはや教育と研究は両立しないよ うに思う。あるいは「影武者」か。
私の勤める大学では来年から一学期15週になる(ちなみに、補講は絶対に行なわれる)。四月第二週から始めると、七月最終週に授業が終わり、試験が八月第一週に終わる計算だ。採点に一週間程度。そして九月第二週から後期の授業が始まる。

夏休みが一カ月「も」ある、と友人のサラリーマンたちは言うだろう。だが、次の学期の授業準備もある(授業準備というものに相当の時間がかかり、まともな授業準備が学期中にできないことが、あまりにも理解されていない)。そして、大学の雑務は容赦なく一か月の「夏休み」にも食い込んでくる。

そのうえに、今年は前期も後期も8コマ(講義が4つ、ゼミが4つ。語学は一つもない)、来年はさらに増えるであろう授業の内容も充実させて(学期中の微調整)、大学の雑務もできるかぎり引き受けて、学生の履修(勉強)指導からキャリア(就職)指導、果てはメンタルケアまで引き受けて(学生に個別に電話をかけ、悩みを聞く)、さらに研究も発展させて…。

もちろん、ここでカフカの『法の門前』よろしく、こう付け加えておかねばならない。「それでも、わしなどはまだほんの下っ端で、中に入るとそれぞれの地位・役割に応じて、すごいことが待っている。このわしにしても、一つ上の世代の仕事量を見ただけで、すくみあがってしまうほどだ」。

文科省は、ひいては国民は、大学教員にいったい何を求めているのだろうか。

三年前、私は「膨大な量の事務作業は、大学教員の仕事なのか?サッカーにおける「ホペイロ」の役割を、日本で大学を論じる人々はもっと知るべきだ。」と書いた。そして、そこで、レディングズの次のような言葉を引いた。

「短絡的な考えがもたらす害の例の一つは、多くの教授たちは週六時間しか働かないという現在の認識である。

野球選手が、打者としてバッターボックスに立つ時間によって報酬が決まるとは誰も考えない。

他の選手が走るのに、キャッチャーはしゃがんでいるからといって、報酬が他の人より少なくて当然とは誰も思わない。

スポーツの世界からもう一つ例をとれば、例えば、冬季オリンピックのフィギュア・スケートの相対的人気は、速さを競う他の種目とは違った意味をもっている」(レディングズ、『廃墟のなかの大学』)

サッカー選手が自分の道具の最低限の手入れをするのは当たり前のことだし、ファンサービスをするのも当然だろう。だが、ファンは、サッカー選手が、自分でボールやユニフォームの発注作業をやり、事務書類を書き、靴の修繕をやることを望むのだろうか?単純に、試合で勝つことに専念し、ベストを尽くしてほしいと望むのではないだろうか。

大学教員の「仕事」とは何だろうか。何であるべきだろうか。それは、デリダの言うような、高貴な「profession」や「profession de foi」だけでは片付かない、日々のtravail、さらにはboulotの問題なのだ。

No comments: