今回のシンポジウム(正確に言うとJournée d'études)は、CIEPFC(現代フランス哲学国際研究センター)とEUroPhilosophie(エラスムス・ムンドゥス)の共同企画である。
アルノー・フランソワと私のco-organisationであるが、プロジェクト自体にゴーサインを出し、ENSのSalle Dussaneという非常にいいところ――2007年のベルクソン・ワークショップの第一セッションが開催された場所。アルノーは「君が発表した場所だね」と懐かしく思い出してくれた――を用意してくれたヴォルムス教授に感謝したい(ENSの哲学部門のサイト上でも宣伝してくれていた!)。また、企画の成立に奔走してくれたアルノー・フランソワに、co-organisateurとして本当に感謝している。
一つ目は、檜垣立哉先生(大阪大学)による「ドゥルーズにおけるバロック的時間の理論に向けて」。本当は「賭博の哲学」でお願いしていたのだが、諸種の事情があったようで変更になり、とても残念。ドゥルーズの時間論と、西田の時間概念、ベンヤミンの歴史概念は交錯しうる、というお話。
討論者カミーユ・リキエも、「これは日本というヨーロッパから遠く離れた視点を持つことによってしかできない発表」と誉めていたし、エリー・デューリングもいい質問――ベルクソンに対するバシュラールの批判に見られるような、非連続性をどう考えるのかという問題は、この三人の時間概念に共通している気がす る――を放ってくれていた。
二つ目は、鈴木泉先生(東京大学)による「リトゥルネロとポップ音楽」。ドゥルーズ哲学において音楽、次いでリトゥルネロ(反復)概念が占める位置を厳密に再構成した後、ポップ音楽における「リフ」のもつ役割の分析が要請される地点まで。具体的な分析に踏み込む一歩手前で終わってしまったのが残念。
討論者エリー・デューリングは、スティーヴ・ライヒのギターのリフを使った作品を聴衆に聴かせてくれ、何が問題となりうるのかを具体的に感じさせてくれた。そのうえで、「作品」概念について――いいリフと悪いリフがあるのか、あるとすればどのように――質問した。アルノー・フランソワはディープ・パープ ルのSmoke on the Waterとデューク・エリントンの「A列車で行こう」におけるリフを取り上げ、ロックとジャズにおけるリフの持つ意味合いの違いについて質問した。
三つ目は、安孫子信先生(法政大学)による「コント『実証哲学講義』におけるパスカルの三回の登場」。デカルトは(批判されるべき)「先駆者」としてコントによってたびたび名指されているが、パスカルはほとんど登場しない。しかし、ブルデューに至るまで「社会的なものの思想家」としてフランスの思想界で取 り上げられるパスカルがおり、フランス社会学の淵源にいるコントにとってパスカルは無視できない存在である。
討論者フレデリック・ケックは、デカルト的「進歩と秩序」の、つまりは「実証主義」を合理主義の枠内で取り上げる旧来のコント像ではなく、パスカル的社会 的なものの思想家コントを描きだそうという野心的な試みを評価。ヴォルムス氏は、パスカルに対して、デカルトを「プレ・モダン」と分類する安孫子氏独自の解釈の意味について質問した。
四つ目は、スヨン・ファン先生(韓国・Université Hallym)による「コンディヤック、メーヌ・ド・ビラン、ラヴェッソンにおける自然発生性(spontanéité)から意志(volonté)への 移行」。18世紀末のディドロら唯物論的な動きと並行して、生命のまさに生命的な部分に着目した研究。
討論者クレール・マランは、フランスでも数少ないラヴェッソンの専門家であり、ヴォルムスともsoinに関する現代医学的・治療的観点から共同研究を行なっている人物。現代医学との関係について質問。ヴォルムスは、単なる受動性と見られていたものの中にすらも、自然発生的・意志的努力があるというフランスのある種の伝統を思い起こさせてくれたと指摘した。
最後に、藤田尚志(九州産業大学)による「結婚の形而上学とその脱構築」。結婚に関しては人類学的・社会学的・政治経済的・文化的・フェミニスト的・ポス コロ的研究はあっても、哲学的観点からはあまり見られない。この「結婚における哲学的な居心地悪さ」をもたらしている現代的な歴史動向と切り結ぶために は、アクチュアルな現状の分析ではなく、古典的で形而上学的ですらある諸概念を脱構築する必要があると強調。「契約」「優先性」「個人性」の三概念をデリ ダ、アドルノ、ドゥルーズとともに分析することを試みた。
討論者ジョゼッペ・ビアンコは、発表の中でフーコーに言及しつつ、積極的に活用しなかった理由を尋ね、ドゥルーズを活用することで、現代的な結婚の要請――安定性と流動性の両立――に効果的・実質的な政治的介入をもたらしうるのかと問うた。エリー・デューリングは「積極的に主張しうる定理は何か」、ヴォルムスは「キェルケゴールについてなぜ語らないのか」質問した。
このシンポジウムは近々、ENSのサイトで録音が公開されると聞いている。関心がおありの方はぜひどうぞ。
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主題が「アジアにおけるフランス現代哲学」ということで、聴衆は少なめ。来てくださったのは、日本人留学生の方々、日本関係のフランス人、および今回の関係者という感じだった。いかに日本で知られている先生方であっても、フランスでまったくの無名である以上、これは致し方ない。「非関係者」であれ、「関係者」であれ、聴きに来てくれたごくわずかな人々が、発表や議論自体を――発表だけそこそこよくてもダメである。議論ができなければ。このことは強調しておく――心底 「面白い」「またぜひ聴きに来たい」と思ってくれるようになるまで、努力を続けていかねばならない。
そのためには、内容はもちろん、発表の長さや発表の仕方――発音の聞き取りやすさ、話の組み立て――など、すべてにおいて高いパフォーマンスを目指す必要がある。
今回、聴きに来て下さった方々がどう考えるにせよ、私たちはベストを尽くしたと思っている。それでも、まだまだ足りないことは自分が一番痛切に感じている。これからもさらなる進歩を目指して精進していきたい。まだ何も手にしてはいないし、まだ何も始まってはいない。
さて、次は15日のシンポ。
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