Saturday, February 19, 2011

ヨイトマケのカント――ルブラン『カント主義なきカント』

よく目につくもの(メルロのQuarto一巻本とか、レヴィナス全集第2巻とか)は私が紹介するまでもなく、それぞれの専門家が紹介されるであろうから、ここでは、目につきにくい(かもしれない)著作を紹介しておこう。

Gérard Lebrun, Kant sans kantisme, études réunies et éditées par Paul Clavier et Francis Wolff, éd. Fayard, coll. "Ouvertures", avril 2009.

これまでにもこのブログで何度か言及してきたが(2007年4月3日の項、2007年12月18日の項)、ルブラン(1930-1999)と言えば、フランスの哲学者なら誰でも知っているのが、彼のカント論である。
Kant et la fin de la métaphysique, Armand Colin, 1970; Le Livre de poche, 2003.

もう少し知っている人は彼のヘーゲル論も知っている(この間のパリ・シンポで
質疑の際に私が言及したのはこの著作である)。
La Patience du concept. Essai sur le discours hégélien, Gallimard, coll. "1972.

最後に、数年前に出た遺稿がある。
L'Envers de la dialectique. Hegel à la lumière de Nietzsche, texte établi, annoté et présenté par Paul Clavier et Francis Wolff, Seuil, coll. "L'Ordre philosophique", 2004.

この最後の本は、バディウとカッサンの叢書L'Ordre philosophiqueから出たが、冒頭に挙げた最新刊を出したcoll. "Ouvertures"もバディウとカッサンの叢書であり、ジジェク『パララックス』などの他に、フランソワ・ヴァールの著書も出している。

というか、我々にとって重要なスイユ社の人文系出版物を考えるとき欠かせない人物であるヴァールのこの二冊目の著書(Le Perçu)が騒動の発端だったのである(詳しく知りたい人はこちら)。

ルブランは長い間、ブラジル・サンパウロ大学で教えていた。フェルナン・ブローデルやレヴィ=ストロースも行った大学使節の際に、フランスによって創設された哲学講座であった。ブラジルの哲学界における彼の影響の大きさについては、ブラジルを代表する哲学者ベント・プラドの証言がある(PDF)。

現代の活力ある思考を紹介するはずの、デリダやジジェクやアガンベンなら断簡零墨でも欲しがる日本の雑誌に、彼らの論考を載せてもらうよう頼んだことがある。何の返答もなかった。Wikipediaでも、仏語・スペイン語・ポルトガル語でしか紹介がないのだから、仕方ないのであろう。別に日本人だけが流行を追っているわけではない。

流行を追うのが悪いとは言わない。しかし、思考の力を持つものを(流行という基準以外に)自分の目で見分けられないのは悲しいことだ。

Blaise Pascal. Voltas, Desvios et Reviravoltas, ouvrage inédit en français, traduction commencée par François Zourabichvili en collaboration avec Diogo Sardinha.

バルバラ・カッサンがルブランを再発見し、ズラビシュヴィリが彼のパスカルに関する著作を翻訳しようとした身振りを心にとどめておこう。



私がブラジルでシンポに参加していた間も、よくルブランの話を聞いた。彼の巨大な論文集がフランス語でなく、ポルトガル語(ブラジル語)で出ているのは皮肉な話である。ルブランはヘーゲル論を最後にフランス語での出版を(ほぼ)やめてしまった。

ポール・クラヴィエ(Paul Clavier コスモロジー関係で何冊かの著書がある)も、フランシス・ヴォルフ(Francis Wolff 著書に『アリストテレスと政治』。マシュレとともに叢書の編者)も、ルブランの弟子なのであろう。背表紙に、ルブランは「フランス最大の哲学史家の一人」であるだけでなく、哲学的思考の最も生き生きとした部分をすくい取る名手である、とある。

哲学者と哲学史家の区別など取るに足りないことなのかもしれない。ルブランやセリスやマルケを読んでいるとそう思わされる。

背表紙を大雑把に訳しておこう。

《ジェラール・ルブランを一度も読んだことのない人に対して、彼はフランス最大の哲学史家の一人であったという説明で満足していてよいものであろうか?たしかに間違ってはいない。だがそれでは、ルブランが実際に行なったことや、彼の仕事から今なお汲み取られる愉しみを理解してもらえないリスクがある。ルブランは、哲学書の生成史を揶揄していたし、教義体系もさほど重視していなかったからである。彼は、親切な教科書が「プラトン哲学」とか「カント哲学」、「合理論」とか「経験論」と呼ぶものを警戒していた。ジェラール・ルブランにかかると、思想は生き生きしたものとなる。その思想は限界まで推し進められ、その思想家にしか辿りえなかった道のりが追体験され、未だ聴きとられたことのない問いに耳を傾けることを知るようになる。

ジェラール・ルブランを読まねばならない。彼を読むと、「近代」を代表する思想家カントは、これまで哲学史が教えてきたよりずっと豊かで、刺激的で、創意に富み、周囲の風景を一変させ、困惑させ、要するに、はるかに「モダン」な哲学者であることが分かるであろう。体系の人目につかぬ片隅、諸問題が現れてくるその場面、諸概念が生成してくるまさにその瞬間、解決が提示される光景、そして新たな深淵が口を開き、新たな哲学的冒険が開始される地点を扱わせたら、ルブランの右に出る者はいない。

読者は必ずや、質・量ともに驚くほど豊かな情報と、大胆なショートカットに魅了されることであろう。ここにはハッタリも、まとまりのない思いつきも、威圧するためだけの博識もない。ルブランは徐々に、しかし集中的に話を継いでいく。「ほんの何気ないこと」から出発して、概念的な話の糸を紡いでいく。読者はしばしば思いもかけない道をたどって、カント思想の大伽藍、あるいはむしろその建設現場ツアーへといざなわれるであろう。

ルブランとともに読むカントとは、したがってカント主義なきカントである。カントの書いたものを文字通り「読み」、それを通して哲学したいと願う人々にとってのカントがここにいる。》


この本に関する書評としては、
『リベ』2009年4月30日付の記事「カントという「物自体」を読むルブラン」
Eric AESCHIMANN, "Le Kant à soi de Gérard Lebrun", le 30 avril de La Libération.

ピエール・ロザンヴァロン率いるオンライン雑誌La vie des idéesの2009年10月28日付の記事「諸概念の忍耐」
Antoine Grandjean, « La patience des concepts », La Vie des idées, 28 octobre 2009.

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