Tuesday, September 30, 2014

いやあ。。

私はツイッターをほとんど見ないのですが、本当にすごい世界ですね。。

匿名に近い形で、論拠も示さず、①「専門家でもない人」とか、ぶった切る。自分で名指しはしないけれど、へのリツイートによって(この呟き自体はニュートラルなのかなと思ってます)、誰を誹謗しているかは分かる仕組みなんですね。いや、そもそも、そういう理解であってるのかな、それすらもよく分からないけれど…。

まあでも、そのように理解されている方が③現にいらっしゃる以上、誤解されたままではいけないので、通り一遍の説明はしておきます。はっきりさせておきたいのは、私が「文学系」かどうかということではなく--私はどちらかと言えばむしろ積極的に「哲学と文学の間」に立ちたいと思っているので--、「専門家でもない」と揶揄される(?)根拠となっているかもしれない誤解についてです。

そこにリツイートされてる方(②)の引用の仕方は、文脈の理解によっては(後で言及するように「ニヤリ」の意味次第では)、私が「ドゥルーズとデリダを混同している」というミスリーディングを誘いかねないのかもしれません。いや、そんなことはありえないとも思うのですが、それ以外にああいう物言い(①)を受ける覚え(直接的なきっかけ)がありません。

いずれにしても、連載論文の当該箇所を参照していただければ、少なくとも「専門家」であれば、すぐに分かることです。慶應から出た『エピステモロジー』第5章「生命哲学の岐路」の372‐373頁を参照していただければ、さらにはっきりと分かるでしょう。
こうして前節で概観した二人の科学観の相違を、一つの例に即してさらに詳しく検討してきたわけだが、ここでひとまずの結論として、先に引いたドゥルーズのニーチェ論をもじって次のように言おう。ドゥルーズは、ベルクソンの思想よりも彼自身の思想により近いようなベルクソン哲学の一つの解釈を与えている。特にベルクソンのデジャヴ論を支える純粋記憶の解釈において、純粋記憶を現働化から完全に切り離され、ただ存在するだけの無力で非活動的なものと規定することで、「記憶の存在論ontologie」を確立しようとしている。だが、この解釈はベルクソン哲学の〈生命学的〉な根幹に抵触する。それは純粋記憶と持続やエラン・ヴィタルの関係を整合的に説明することができないばかりか、ベルクソンが闘ったものをまったく無視している。ベルクソンは、生命の根拠を〈存在〉の内に見出すような肯定についてのすべての考え方と対立している。純粋記憶は無力なのではなく、無為なのであり、直接的に有用性に向かわないだけで、すべての効力は保持している。純粋記憶はただ〈在るêtre〉のではなく、〈執拗に在る=執り憑くhanter〉という仕方で、デリダの『マルクスの亡霊たち』の言葉を借りれば、或る「憑在論hantologie」を形成しているのだ
「ニヤリ」(②)の意味するところが、混同(では明らかにないわけですが)を嘲笑するものではなく、ドゥルーズに対抗するためにデリダの概念を何とか使えないかと考えた私の意図に(肯定的であれ否定的であれ)反応してくれたものであればいいのですが、おそらく私の連載を読んでくださる奇特な方なので(ありがとうございます)、理解していただいていることと思います。ちなみに、現在連載中のところで、二つの存在様態の違い(つまりこの引用のさらに先)をなんとか説明しようとしていたのでした。。

ともあれ、先の発言(①)の主が私を攻撃したいのは、そこではないでしょう。彼のこれまでの研究の方向性を鑑みるに、「お前(私)はベルクソンの言語論についていい加減なことを語っている」と言いたいのではないでしょうか。

しかし、ついこないだ学会でその方の司会をして、研究会でも顔をあわせて、普通に会話を交わしていたのですが。。

よくあることなんでしょうか。自分ではしたことないと思っているけれど、私も案外やってしまっているのかもしれません(あ、こうやってブログで返すというスタンスは、まさに「同じ」なんですかね…)。もしそうだとしたら、私にディスられた方(と思われている方も含め)、誠にすみませんでした。お許しください。

論文は広く公開されてるものなので、何を言われても仕方ないんですが、機会があったわけだし、そんなに喋りにくい雰囲気でもなかったのだから、直接議論を向けてくれてもよかったような気もします。

誤解されてるかもしれませんが、私は自分のレベルはそれなりに自覚しているつもりです。

何はともあれ、自分にできる最善を尽くして、地道に頑張っていきたいと思います。それしかないです。

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