Tuesday, March 01, 2016

3/6 「役に立つ」とはどういうことか? デリダ、プラグマティズムを用いた哲学的大学教育論@大学コンソーシアム京都 第21回FDフォーラム

以下は予稿集に掲載される文章です。

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 「役に立つ」とはどういうことか?
デリダ、プラグマティズムを用いた哲学的大学教育論 

第1回FDフォーラムのテーマは「『知の技法』が問い掛けたもの」であったそうだ。そのことを驚きとともに指摘した昨年のフォーラムの第8分科会の報告集は興味深いものであった。なぜ驚いたのか。それは最近のフォーラムが、よく言えば「FDの専門家がFD担当者を啓蒙する場」、悪く言えば、“お上”の意向を忖度しつつ、それに沿って策定された教育方法・教育評価のトレンドを「われ先に」と自家薬籠中にする“優等生競争”推奨の場と化している感があるからだ。「教育熱心なFD素人」であるさまざまな分野の担当教員が、専門性を保ちつつも、広く興味をかき立てる魅力的な授業を競い合ってみせ、大反響を呼んだ『知の技法』。その問い掛けたものについて議論する空間は果たして今、「玄人のための玄人によるFDの場」に残されているだろうか。それが驚きの理由であった。開始から20年、参加者数が伸び悩む背景には、このようなディレンマがある。そう担当者は綴っていた。

さて、今回のFDフォーラムである。「大学教育のイマドキから見えるカタチ」について本当の意味で再考するにはやはり、さまざまなひとびとの力を結集しなければならない。“現場”経験や“社会人”経験をもったひとびとの声と同時に、“教養”教育や“理論”研究に従事するひとびとの声をしっかり聴きとる必要がある。自然科学系と同時に人文社会科学系の声を。そのために本発表では、デリダとプラグマティズムの再読解を交えつつ、現代の大学改革にとって重要な意味を持ついくつかの概念の哲学的再検討を試みる。FDフォーラムで、なぜ哲学的分析を? だが、まさにこの場違い感とその理由をこそ、議論の出発点としたいのである。より“実践的”な“社会人基礎力養成”の教育法を開発するためには、まずもって「実践的とはどういうことか」を知らなければならないが、誰も本気でそのことを問おうとしていない場所で。哲学とはごく簡単に言えば、そのように誰もが自明視している“常識”を疑い、「役に立つ」とはどういうことか、「真の社会人」とは何かを問う学問だ。大学は「社会への入り口」なのであって、単なる「会社への入り口」であってはならない。短絡的な発想が致命的に危険であることを産業界自体がよく理解している。現に、文部科学省が二〇一五年六月、国立大学に人文社会科学系学部の組織見直しを求める通知を出したが、経団連は同年九月、安易な見直しに反対する声明を出している。

なぜデリダとプラグマティズムなのか? それは当日説明することにしよう。彼らの再読解を通じて何を示したいのか。表層的な“効率性”、“早くから現実と接触”は、すでに度量衡を共有した、「想定内」の世界である。それに対して、哲学や文学など、社会の中ではあり得ないほどの思考実験の現場であり、他者体験の現場でもある人文学が、仮説の論証や古典の読解を通じて示すのは、極限的な度量衡の欠如状態である。会社の中での他者体験よりもはるかに虚構的であり、常識的な“リアリティ”を欠いているがゆえに、なおいっそう“リアル”な他者体験である。いわゆる「現実社会」が大学の学問の世界より広いと言いうるのは、現実社会が自らの「現実」を十全に理解し適切に表現しえた場合のみである。そうでないのであれば、大学の学問の世界は、その虚構性において、いわゆる現実世界よりも、実は広い。会社においては、限定的な思考実験しか行いえない。それ以上の余裕は与えられていない。だが、大学においては、いや、唯一大学においてのみ、際限のない思考実験を体験することができる。その体験は未来の可能性を開く。これは大学にとってプラスアルファではなく、本質的な条件である。

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