Monday, August 15, 2022

『ベルクソン 反時代的哲学』にいただいたご講評その2(檜垣立哉先生)

大阪大学の檜垣立哉先生からツイッター連投で、拙著前半の論点を鋭く指摘していただき、感謝に堪えません。読解のよすがになることを願い、檜垣先生のお許しを得てここに掲載させていただきます。

あまりに長大かつ詳細な文献で、思わず個々の細かな注釈に読みふけってしまうのでスピードをつけて読むことは出来ず、創造的進化以降はさーっとながしたがやむを得ない。杉山さんのようにテクストにあくまでも聴診するようにひたひたと探る読解でもなく、不肖私のように、ぱーっと現代思想にあたりをつけて、回路を設定していく読みでもない。ある意味では地道にベルクソンを読みつつ(百科事典的に当時のアカデミックの流儀を明示する数々、個々の術語の訳書に於ける差異とその検討は本当に勉強になった。どこかで書評書かせてくれないものかとおもうがZoomでやればよいのか。

藤田さんの『ベルクソン 反時代的考察』とりあえず(…)のメモ。
→測定できないものの測定/場所なきものの場所/方向づけられないものの方向/呼びかけ得ぬものへの呼びかけというベルクソンの四著作をある意味でオーソドックスにまとめる手さばきは鮮やか。

繰り返し、個々の論述の細部は大変に光るものがある。(…)2,3挙げておきたい 。

1)一貫して藤田本のベルクソンは、カントとの対比のなかにある。その意味でこれはポストモダンをすでに経由してしまったあとで、きわめてオーソドックスなベルクソンをどう書くかという勝負をしているようにもみえる。

2)ここに絡むのだが『試論』の部分で、持続について、メロディではなく「リズムなんだ」ということ、これがリズム=測定とからみながら測定し得ないものの測定として一貫しているが、これもまたカントと絡む。

3)というのも藤田本の骨はベルクソンVSカントでありつつ、重要なのはそこでの感性論と構想力論のあつかいだからである。これは例のハイデガーのカント書や、また判断力批判をめぐるロゴザンスキーや、たくさんでてくるのだが、結局は超越論的構想力の図式性を、「超越論的」でなく「内在的」に描こうとするのがポイントであるようにおもえる。

そして2)のリズムの話は個々にかかる。内在的構想力はリズムの内的展開の話である。ここに藤田はいわばベルクソンの柱を見ている。私もこれは正しいとおもう。自分自身も田辺や三木の日本京都学派がハイデガーのカント書を評価しない、という方向はある意味でハイデガーのベルクソン無視(存在と時間のある注でのほんの一部触れるだけというあり方)を考えるとハイデガーのベルクソン無理解はきわまるし、ある意味ではそれが逆に藤田ベルクソンを引き立ててもいる。

4)hantologie/ontologieという亡霊的なものの比喩(抜かしたが、藤田本は冒頭は言語と比喩の話である)がどこまできいているか、過去の実在という『物質と記憶』の大テーマである過去を敢えて亡霊的ととらえることに、デリダの『マルクスの亡霊』そのほかのあり方をみていながらも、個々は今ひとつ成功したのかどうかわかりません。もっと一言、デリダ的な気持ち悪さの方向がベルクソンは明らかに違う点を書くべきでは。

5)ベルクソンに残存する身体という問題系。これはきわめて重要であるはずだろう。藤田はとりわけ手、しかもこれをメルロ=ポンティ的な二つの手(の差異)、おそらくはデリダのゲシュレヒトの手。ルロワグーランを引くスティグレールの手・技術・補綴につなぐ。また最終的にベルクソン的な身体像をどこかで探りだそうとする。これは非常に腑に落ちる話であると思う。
単純に超越論的でない「内在的」構想力の感性的な「身体を含む」組織化、ここに藤田はもっていきたいということは大変よくわかる。

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