Tuesday, August 16, 2022

『ベルクソン 反時代的哲学』にいただいたご講評その3(杉村靖彦先生)

2022年6月17日に京都大学の杉村靖彦先生からいただいた私信で、拙著後半の論点を鋭く指摘していただき、感謝に堪えません。読解のよすがになることを願い、杉村先生のお許しを得て、ここに掲載させていただきます。

(…)第Ⅲ部と第Ⅳ部を拝読しただけですが、数々の刺激的なアイディアを提示しながら前へ前へと進んでいく藤田さんの筆致に強く動かされ、こちらも色々な思考を喚起されました。ある意味でベルクソン的な「呼びかけ」にも通ずる、「呼びかける」論考として受けとめました。考えてみれば、これは、PBJのような活動を立ち上げ展開させてきた藤田さんの学術活動上の志にも通ずる姿勢なのかもしれません。

「テクストの骨組みを抽出してアーギュメントの束に分解し、そこに潜む概念作用を顕在化させるという操作だけが読みの解像度を上げる手段ではない。〔…〕そのような概念化から零れ落ちるものにも目を留めねばならない。隠喩や類比、イメージは哲学にとって、とりわけベルクソン哲学にとってむしろ本質的な契機である」(447-448頁)。これがご著書を貫く藤田さんの基本的な視点であるといえるでしょうが、こうした視点からの論述を、印象的なイメージの羅列に終わらせずに、本書のように力強い思索表現へと仕立て上げるには、論じられる対象である隠喩やイメージの強度に拮抗しうるような、論じる者自身の論じ方とそのスタイルへの鋭い意識が不可欠であるように思います。藤田さんの論は、フランス語でも日本語でも、いつもそのような意味でのスタイルへの鋭い意識に統御されており、(…)今回のご著書で、あらためてその点を再確認いたしました。

内容的には、やはりベルクソンの「(非)有機的生気論」という構図がきわめて喚起的で、その中で特別な指標となりうる「手」のモチーフには、大いに興味を掻き立てられました。後期西田の「歴史的身体」論でも、ベルクソンをも参照点のひとつとする「手」のモチーフが重要な位置を占めており、私自身、デリダの論などを踏まえながら、その可能性を考えてきました。「(非)有機的」というのは、それを掘り下げていくための指標となりうる視点であるように思います。(…)

また、この「(非)有機的生気論」という構図とも深く連動するものとして、『二源泉』の「corps minime/corps immense」のもつ射程にも、改めて目を開かされました。

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