Saturday, November 25, 2000

すべては政治的である、のか?(k00592)

"Tout est-il politique ? (simple note)", Actuel Marx no. 28, pp.77-82.(承前) 

≪この論理に従えば、「すべては政治的である」は原理的な所与であるということになる。そして、ある制度ないし知(ないし術)から切り離された領域としてあるはずの「政治」自体が、何よりまず己れの表明し指し示している自然の全体性を実現するために、己れ自身の[他領域との]区別[分離]の廃棄を目指すことしかできない、ということになる。そうだとすれば、最終審級にあっては「すべては政治的である」と「すべては経済的である」との間に相違はないことになる。

こういうわけで、民主主義と市場は、互いに手を携えて、今日「世界化」と呼ばれているプロセスへの道を自分たちのために切り開いているのである。「すべては政治的である」はしたがってまた、次のような主張に行き着くことにもなる。己れ自身の自然本性[人間本性]の生産者と見なされる、ということはその内に表れている自然全体の生産者として見なされる「人間」には自足がある、と。

この自己充足、この自己-生産という漠然とした表象は、今日までのところ、「右翼の」であろうが「左翼の」であろうが、「政治」の表象をすべからく支配している。「国家的」であれ「反国家的」であれ、「合意に基づいた」ものであれ「革命的」であれ、何にせよ、少なくとも広範な政治の「プロジェクト」を旗印に掲げた表象はすべてそう捉えられる。(単なる調整や不均衡の是正、緊張の緩和などといった、政治のおとなしめのヴァージョンもあるにはある。よくやっていると言えるときもあるが、妥協を重ねていることも多いあの「社会民主的」手間仕事がそうであるが、その背景はやはり同じである。) 

したがって、今日政治の「危機」「不振」「麻痺」と名付けられているものが提起する問題とは、ひとえに人間の、そして/あるいは、人間の内でのないし人間による自然の、自己充足である。ところで、まさにこの自己充足こそは、現在という時が日々少しずつその薄弱さを明らかにしているところのものである。というのも、世界化、-すなわちpolisの一般的なoiko-logisation-はいずれにせよそれ固有の展開の非-自然性を、絶えずより活発に、あるいはより暴力的に生ぜしめているからである(だがそれはまた、最終的には、「自然」と目されているもの自体の非-自然性でもあるだろう。我々は未だかつてこれほどある種のmetaphusisの領域にいたことはなかった)。≫

 この(とりわけ前回訳出した部分に顕著な)デリダ=ハイデガー的な語源学への露骨な依拠の方法論的妥当性はともかくとして、「経済的なもの」そのものを語ることを回避しようとする態度は一目瞭然ではあるまいか。人は「経済的なもの」について語っているつもりで、その実「政治経済的なもの」について語っているに過ぎない、しかもその「政治経済的なもの」の根底には人間と自然の錯綜した関係がある、というナンシーの議論の方向性は前回指摘しておいた通り、まさに「滞留」の渦の一つとしか見なせないものである。しかし、この議論の行く末をもう少し追ってみなければならない。

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