***「まだ始まってもいない」。とても厭な、でもまとわりついて離れない言葉。
isさんへ
>なぜかこの本、僕の周りであまり話題になって
>いなかった気がするのですが(・・・)
東京のごく一部のローカルニュースにすぎませんが、プリゴジンの自称弟子(翻訳者でもあります)は、この本に共感していたようです。ソーカルの本が標的にしている当のものをほとんど(あるいはまったく)読んだこともなく、それどころか人文科学一般についてただ漠然としたイメージしかもっていないにもかかわらず、それらをもとに「科学的思考に基づいて」判定を下せると考える大学人(無論理科系には限られないでしょう)には一定程度受け入れられているのではないでしょうか。
nyさんへ
本当にお久しぶりでした。お元気ですかと聞くまでもなく、雑語を見れば分かりますね。こちらは、モグラだか、冬眠前の熊だか、ひっそりそれなりです。
mtさんへ
マシュレもまた「ひっそりそれなり」の人です。彼はおそらくこのリール第三大学の中で最も古風な(しかしきわめて明晰な)授業を展開している哲学教授かもしれません。デカルトの情念論、スピノザの情動性、ヘーゲルの精神現象学についての授業は模範的といって良いでしょう。
私はマシュレの長所は、鈍重で野暮で時代遅れかもしれないけれど、執拗に問いつづけ、彼なりの仕方で哲学しようとしているところにあると思う。この言葉へのこだわりの執拗さという点において、塩川徹也教授が自然と思い出されてきます。彼らのもとに身を置いて考えることを始めたいというのが、今漠然と感じていることです。それは正統への回帰や正統からの出発ということではない。彼らは、私が自分の下に材料を集めることのできるようないわば仮設的な「真空状態」を作ってくれる。通常感じずに済んでいる大気の重みを感じさせることによって。重みに耐えられなければ結局のところ考えるところにまでは至りつかない。私は京都でおそらくは考えるということの匂いを嗅ぎ、それへの憧れを持ったけれども、いかなる重みをも背負わなかった。東京でフランス文学を通して少しは背負うということを知った気がするけれど、哲学の重みを背負わなかった。残念ながら今ごろからようやく取り掛かろうとする、という感じです。
どのような「場所」に身を置くかということは、物を本当に考える上できわめて重要ですね。「考える」というのは本当に難しい。考えているつもりで「考えさせられている」ないし「考えたつもりになっている」ということがなんと多いことか。どうしてもこの一種の循環の中から抜け出すことはできないと、あるいは端的に考える必要のないこと、考えるだけ無駄なことと考えることも可能かもしれません。しかし、少なくともどこに身を置くべきではないか・・・
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