なぜ動物性が問題なのか、という原理的な問いにはさしあたり答えることはできません。
(「動物性」の問題は、「供犠」を通して「宗教的なもの(の世俗化と聖なるもの)」「共同体」の問題から派生したのではないか、したがってハイデガーと共にバタイユを読むというナンシーの戦略はきわめて正しいのではないか、というのが私の仮説なのですが、まあそれはいいことにしましょう。)
そこで、フランスではいつ、どのような形で問題になってきたのかだけをお答えします。見通しがいいのでド・フォントネーのまとめを拝借すると、「ハイデガーの1929-30年講義録の仏訳が出版された(1992年)のと相前後する時期に、ハイデガーに関する、ハイデガーとの議論の場における決定的な基準として、動物の問いが現われてきた」ということで、にわかにこの問題が仏現象学派(フッサールも動物を子供などと共に例として取り上げていますから)、仏ハイデゲリアンの間でクローズアップされてきたわけです。
ではなぜ、1929-30年の講義録『形而上学の根本問題-世界・有限性・孤独』なのか?それは、ハイデガーの動物に関する有名な定義「石は世界を持たない(weltlos)、動物は世界が貧困である(weltarm)、人間は世界形成的(weltbildend)である」がここではじめてかなりの規模で展開されるからです。
(これについては、ジジェクが『脆弱なる絶対』(原書2000年)第8章「石とトカゲと人間について」で取り上げていて、さすが見事な「知の行商人」の勘と言いたいところですが、内容はかなり今一つで、むしろ意外に木田元あたりがいいんですよ。『ハイデガー』(初版1983年)と『ハイデガー『存在と時間』の構築』(岩波現代文庫、2000年)を読み比べると木田元の「進化」が窺えますが、そんなくだらないことはしなくてもいいんで(笑)、後者だけをお読みください。読みやすくてそこそこのレベルはある、哲学専門でない人にもお薦め本です。
後者の第一章で、木田元は「<世界内存在>は相当程度生物学由来の概念である」とか「ハイデガーの<世界内存在>という概念の形成に、ユクスキュル[環界繁縛性]やシェーラー[世界開在性]のこうした着想が大きな影響を与えたに違いない」と言っているけれど、「人間の根本構造としての世界内存在に関する『存在と時間』の中心的なテーゼは言ってみれば、今世紀初頭にあって生物とそれを取り巻く世界との伝統的な関係を本質的に修正したこの[ユクスキュルらの]問題構成全体に対する一つの答えのようなものとして読める、ということも考えられないわけではない」というアガンベンの言葉を聞けばさぞ喜ぶでしょう。ssさんが現存在と結びつけたのも「ご明察!」です。)
さて、この動物性の問題に関するデリダの本格的な出発地点も、またもやssさんのご指摘どおり、ハイデガー、とりわけ『精神について-ハイデガーと問い』(1987年)だと思います。デリダの動物論について、詳しい話は必ずや近いうちにご紹介するとして、ご興味がおありの方は、ひとまず批評空間アーカイヴの王寺さんの紹介文を参照してください。王寺さん、例によって、得意分野じゃない場合の逃げ方も見事なものですよ。
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