さて、表題の一部にもなっている「世界の残りの部分」。これは、IPA規約草案のなかの「(当協会の主な地理的活動エリアは、目下のところ、合衆国-メキシコ境界線以北の北米、同境界線以南の全南米、そして世界の残りの部分、と規定される。)」と括弧書きされた一文からとられたものです。
お分かりのように、そこでは精神分析発祥の地であるはずのヨーロッパ(と「分析的入植が強固に行なわれたあらゆる地域」)と、精神分析がいまだ本格的に足を踏み入れたことのない諸地域が、一緒くたにされている。
そこでデリダは、このIPAの(実質的には)四区分に対して、自分なりの四区分を提案します。まず「精神分析の処女地」がある(81年のデリダによれば、「ほぼ全中国、アフリカのかなりの部分、非ユダヤ・キリスト教世界のすべて、しかしまた幾千もの欧米の奴隷たち」)。この第一の地域は、1)精神分析も人権観念も未発達の社会主義東欧諸国と、2)それ以外の地域の二つに下位区分されます。
次に、精神分析は強固に根付いている、人権はそれほど守られているわけでもないけれど、ラテン・アメリカの多くの国ほどにひどいものではないという地域(3)西欧+北米)。
そして最後に、4)「精神分析装置と政治暴力の展開が[3)とは異なる形で]共存するもう一つのタイプ」、精神分析が隆盛する一方で、人権は尊重されず、「現代的軍事-政 治暴力」が前代未聞の形で横行し続ける社会、「隆盛を極める精神分析的社会と、もはや古典的で粗暴な、簡単にそれと分かる形で行われるのではない拷問が大 規模に行われる(市民的であれ、国家的であれ)社会とが(対立しつつであれそうでなかれ)共存している、世界でただ一つの地域」を、デリダは「精神分析の ラテン・アメリカ」と呼ぶわけです。
≪精 神分析の制度と歴史的運動の観点から見て、ラテン・アメリカで起こっていることは、精神分析が生じなかった、あるいはまだ場を占めるに至っていない世界の あらゆる部分、「世界の残りの部分」[デリダの区分で言えば1+2]で起こっていることとは比べものにならないし、精神分析が根を張っていて、人権は少し 前からもはや、あるいは未だあれほど大規模な、見世物的な、恒常的な形で侵されていないほうの「世界の残りの部分」[デリダの区分では3]とも比べものに ならない。≫
で、この「今日、精神分析にとってラテン・アメリカという名が意味するように思われるもの」を名指すこと、「ラテン・アメリカと名指すこと」が重要なのだ、と言って締めくくるわけです。
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ま、面白そうな観点もないではありません(例えばデリダは、明らかに『郵便葉書』を意識しつつ、規約の採択方法をめぐるIPAの議論(会議出席者の直接投票が後日送られる欠席者の郵便投票に影響を及ぼしうる以上、両者の比重をどう考えるべきか)を問題にしている)。
が、しかし正直言って、デリダのこの講演が成功していないと私が感じる最大の理由は、デリダがここで読むことを提案している二つの資料(一つは、NY大会の議事を再録したIPA会報144号であり、もう一つはエルサレム大会で提案された(ヘルシンキ大会で採決されるべき)新たなIPA規約の一部)が面白くないということに尽きます。
脱構築されようのない、重層性の全くないテクストが相手では、いかにデリダでも、純然たる政治的言説にならざるをえないという好例でしょう。
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では、日本に精神分析は根付いたと言えるのか(あるいは、適応するための問題点は何か)という非常にシヴィアな問いは残っていると思いますけれども。これもkさんにフランクに伺ってみたい問いではあります。