Saturday, December 31, 2005

優しいFWは生き残れない(哲学においても)

今日、リズム論文の仏訳を終えた。明日はオーバーホールすることにして、新たに動き出すのは新年からにする。新年早々の目標は二つ。1)一月上旬に指導教官と会う予定なので、その際に約束の博論序論の一部を渡すこと。2)二月のAix遠征に向けて準備を始めること。

ところで前回のようなことをしょっちゅう書いていると、私は傲慢で叩かれたことがないかのように思われるかもしれない。しかし、かなり厳しい目にあっていることも事実である。未だに「こんな程度のフランス語のレベルじゃ出版できる状態じゃないね」と厳しいフランス人の友人に言われたりすると、かなりめげる。そりゃお前はいいよな、と思う。正直腹も立つ。けれど、こればかりは仕方がない。相手の土俵で、相手の流儀で戦っているのだ。手加減してもらって、勝ったことにしてもらって、最後に「よく頑張ったね」などと言われたいためにフランスに来ているわけではない以上、言い訳はできない。



友人の間では周知のことだが、私がスポーツネタを話題にする場合には、ほぼ必ずや学問研究の比喩としてである。したがって、以下に書くことは直接サッカーに関することではない。サッカーファンの方々に無駄な時間を使っていただきたくないので、あらかじめお断りしておく。



私は「スポーツナビ」の欧州各地のサッカーコラムの愛読者である。これらの記事はすべてフリーランスのライターによって書かれており、もちろん新聞記者の書くものより断然面白い。書くときの緊張感が違うし(彼らは面白いものを書かなければそれまでなのだ)、欧州についての文化的理解の深さも違えば、そもそも欧州サッカーという以前に、サッカーについての理解の深さが違う。

ホンマヨシカさんの「セリエA・未来派宣言」も私が愛読しているコラムの一つである。今日は、2005年12月28日付の記事「優しいFWは生き残れない」を読んで印象に残ったので、ご一読をお勧めしておく。ここではとりわけ印象に残った部分だけを引用させていただく。

いつものようにほほ笑みを浮かべながら質問に答えていた柳沢からは、試合に出場できない悔しさは伝わってこなかった。インタビューが終わった後、日本人ジャーナリストの輪の中に知り合いのジャーナリストを見つけたので、「柳沢から悔しさが感じられないね」と聞くと、「いや、やはりインタビューをしたくなかったようで、そのまま立ち止まらずに行こうとしましたよ」とのことだった。だがそれでも僕が「でも、悔しさが全然感じられないよ」と続けると、面識のないジャーナリストの1人が、「悔しくても、彼はそれを外に出さないタイプだから」と答えてその場を去った。僕にしても柳沢が悔しい思いをしているだろうと重々承知しているのだが、問題は彼がその悔しさを外に表わさない(表わせない)ことだ。 インタビューを受けたくなかったのなら、待ち受けている日本人記者たちには失礼だが、無視して通り過ぎるか、「何も言うことがありません」と立ち去るぐらいの悔しさを表わす行動を見せてほしかった。

この一文を読んで感じることは二つ。

1)一つは「悔しくても、彼はそれを外に出さないタイプだから」と答えてその場を去ったジャーナリスト氏は、質問の真意をなんら理解していない、典型的な日本人ジャーナリストである可能性があるということ。欧州に何年住んでいても、いつまで経っても悪い意味で日本人のままという人がいる。柳沢が周囲に嫌な気分を味わわせまいと悔しい思いをじっと押し殺しているだろうことは百も承知のうえで、彼がイタリアで活躍するために必要な感情表現上の工夫とは何なのかを問うているのだ。日本人が日本人スタイルで仕事をしていて受け入れられる土壌(たとえば寿司屋などの日本料理店ないし海外進出した日本の大企業)で仕事をしている人はよい。また、自分のスタイルや信条を投げ打ってまで成功などしたくないという人も勝手にすればよい。だが、そうでない場合には、時には自分の性格も信条も投げ打ってでも、相手の要求に応えてみせる用意が必要だ。「自分のスタイル」を云々するのはその後でいい。ちなみに、ホンマさんは

今年の初めだったか、スペインリーグのコラムを書いておられる木村氏が、大久保の日本人には珍しいアグレッシブな姿勢を評価されていたのを読み、セリエAでもそれくらいの姿勢(特にFWというポジションでやっていくには)が必要だと、僕は至極納得した。

とも書いておられ、木村さんの当該記事ではないが、大久保に関するKosuke Itoさんの記事(や別の記事の抜粋)を賛意とともに引用させていただいた私としては、意を強くした次第である。

2)二つ目は、この点(悔しさをストレートに表に出すこと)をそのまま哲学研究に応用することは、もちろん(笑)、できないということ。哲学というのは、悪く言えば、鼻持ちならないお高くとまった分野である。日本はいざ知らず、とりわけ欧州では、未だに良家の子女が「修身」として学ぶ学問である。実際、私の知り合いにも、貴族の末裔のような人々がいくらでもいる。この点、私たち哲学研究者の要求される技術は、サッカーにおける上記のような闘争心むき出しのガッツの見せ方とは、100%逆でなければならない。つまり、インテリジェンスとユーモアを兼ね備え、スマートでエレガントでなければならない。

(むろん、両者の差異を相対化することは幾らでもできるが、本質的な差異が残ることに変わりはない。)

このことはサッカーを低く見ることも、哲学を高く見ることも意味していない。哲学に対して皮肉を込めて言っているのでもない。フィギュアスケートやシンクロナイズドスイミングにおいて、何よりもまず優美さが要求されるからといって、彼らにガッツが求められないわけでないのと同じである。ただ、ガッツをまったく別の形で表現しなければ、そのガッツ自体が無意味になってしまう領域・分野というものが存在するのである。

ただ、哲学研究とフィギュアやシンクロの違い、そして哲学とサッカーの共通点の一つは、それが多民族間の「チームスポーツ」だということである。この点はきわめて重要なので、項を改めて書くことにして、ここで言いたかったことを最後に一言でまとめておくとこうなるだろうか。

私たちは競技場に「心優しいFW」を見に来ているのではない。「点取り屋」を見に来ているのである。哲学においても事は同じである。

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