哲学の祖をソクラテスとするか、プラトンとするか。いずれにしても、哲学と耳の関係は決定的に重要だ。ソクラテスは著述活動より口頭での対話を自らの思考の手段として選んだ。プラトンはそのスタイルをできるかぎりエクリチュールに、すなわち韻とリズムを重んじた言葉に移し変えようと試みた。
日本の西洋哲学研究にはいろいろと大きな問題があるが、その一つに「耳」の問題がある。より詳しく言えば、西洋諸語を聴くことの困難という問題があり、また翻訳日本語で西洋哲学を聴くことの困難という問題がある。
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フランスは文化国家であり、日本は教育国家である。フランスにはarteがあり、日本には教育テレビがある。フランスには一流の研究者が最先端の研究成果を自由に発表するコレージュ・ド・フランスがあり、日本には大家が実に行き届いた入門コースで懇切丁寧に教えてくれる放送大学がある。
悪平等社会である日本は「目」新しいものをすぐに取り入れる自由闊達さがあるが、また資本の論理に従ってすぐに忘れてしまうという気風があり、階級社会であるフランスは外来のもの、新手のものをなかなか取り入れないが、いったん取り入れると粘り強く「耳」を傾けるという気風がある。ニュートラルに言えばそういうことだが、殊高等研究に限って言えばそうはいかない。
日本では大衆教育や啓蒙には金を出すので人が集まるが(文化センターやレクチャー・コースの隆盛を見よ!)、金を出すだけではどうにもならない高等研究は遅々として蓄積していかない。建築への意志、文化への意志、すなわち堅固(堅実にして着実)な制度化が欠けているのだと思う。アメリカのそれとかなりよく似た、自由で軽やかで純粋資本主義的な状況下で、日本の人文科学、とりわけ哲学・思想研究は無限の後退戦を強いられている。
このような気風を一朝一夕に変えられるわけもないし、状況を客観的に見れば、そんなことを望むことすら非現実的と笑われかねない。だが、小さなところから始めることは暗い時代の人々にも可能だし、暗い時代にはむしろそのようなところから始めざるを得ない。
France Cultureでは、毎週金曜日に哲学に関する放送「Vendredis de la philosophie」が朝十時から一時間放送される。私たちはそれをネットで聴き、podcastで録音していつでも聴きなおすことができる(Windowsでも)。日本はどうだろうか?日本の哲学は、真剣な哲学・思想研究は、人々の耳に届いているだろうか?
耳から始めること、哲学の歌を聴け。
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p.s.ラクラウ=ムフのすでに古典となった『ヘゲモニーと社会主義者の戦略』に関するバリバールらとのCollège International de Philosophieにおける討議もよろしければどうぞ。
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