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フランスやドイツには哲学関係のCDが少なからず存在する。ドゥルーズのものは日本でも(日本でこそ?)よく知られているであろうから、ここでは日本人にとってもっと切実な意味で重要なCDを紹介しておく。切実だという理由はすでに述べたことがあるので、ここでは繰り返さない(2003年8月2日の「意志的隷従と怠ける権利」の項を参照のこと)。
朗読しているドゥニ・ポダリデスは、名前からしていかにもギリシャ系移民の二世ないし三世。私のお気に入りの役者だ。コメディー・フランセーズで「リュイ・ブラース」に出演しているのを見たこともあるし、ブルデューの息子の情けないドキュメンタリーにも友情出演したりと芸の幅は広いが、やはり軽い映画がいい。ガストン・ルルー原作の『黄色い部屋の謎』は誰にでもお薦めできる佳作である。
このCDを出しているテレーム出版社の名前はもちろんラブレーの「テレームの僧院」から来ている。作家・思想家の言語のもつ「音楽性」に注目し、「声に出して読むことは、偉大なテクストを誰の手にも届くものにする」と宣言できるのは、それ以前のフランス知識人たちの地道な努力、歴史の積み重ねがあるからにほかならない。日本の哲学はどうだろうか?「聞くに堪える」だろうか?あるいは、より正確に言えば、思想の重みに堪えて聴き続けようとする聴衆はいるだろうか?
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日本でも西田の対談の録音などが残っているようだが、記念館の独占物にしておくというのはいかがなものか。また、西田の主著の録音などは不可能なものか?もし不可能に思えるなら、なぜ不可能なのか?近代日本の哲学がはらんでいる問題の核心には案外そんな素朴なところから接近できるかもしれない。耳から始めること、哲学の歌を聴け。
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