Thursday, November 30, 2006

感謝知らず-高潔の哲学史(取るに足らぬ序文)

sympaな人はいくらもいる。magnanimitéをもった人はなかなかいない。フランス語のmagnanimeの語源であるラテン語のmagnanimusは、magnus(大きい)とanimus(心)からできた語である。寛大・高潔・高邁・高貴・広量・雅量などと訳される。

純潔を保つために人を遠ざけ、あるいは「孤客(ミザントロオプ)」であるがゆえに否応なく保たれた純潔が腐り落ち、傲岸不遜に堕する、そういった人々のことをいっているのではない。純潔と高潔は異なる。マニャニミテは、泰然自若とも訳せるはずだ。

人と交わることを怖れず、人の輪の中にあって高潔を保ち、どうしても空の高さを感じさせずにおかない人。ごく稀にそういう人に出会うと、性別はどうあれ、心がときめく。少し時代がかっているかもしれない、でもそれがなんだろう。

Sed omnia praeclara tam difficilia, quàm rara sunt.

とスピノザも言っているではないか。私自身も、常々magnanimeでありたいとは思っているし、またそのように振る舞うよう努力もしているのだが、修行が足りないのでずいぶんつまらないことで腹を立てることもある。

もっとも、《いろいろと親切に教えてあげてもなんとも思わない》とか、《情報をしれっと利用した挙句にあたかもはじめから自分は知っていたと言わんばかりのポーズで対抗意識をむき出しにしてくる》とかいうくらいはかわいいもので、全然許容範囲である。

パリのとある友人があるテーマについてゼミを開くことにしたと予告を送ってきたのだが、そこに並んでいる参考文献は一年前なら彼の知らなかったものばかりだ。たしかに悔しい気持ちもないとはいえない。だが、この悔しさはフランス人の彼がパリで当該テーマについてセミナーを開くという事実に対する私の地政学的な関心(羨望?)に由来するもので、彼のそういう性格自体への怒りに由来するものではない。たぶん彼は私に情報提供を乞うたという事実すら忘れている幸福な人なのだから…。まあ、そういう人は世界中どこにでもいる。

自分のmagnanimitéを本当に試されるのは、いわれのない攻撃を受けた場合ではあるまいか。火のないところに煙は立たぬという。しかし、マッチ一本から大きな山火事に至るには、相当乾ききった心か、苛立ちの大風という下地がなければならないはずである。なんでも悪く取る用意のある人に対してどう毅然とかつ穏やかに対処できるか。哲学者たちの声に耳を傾けてみよう。

ちなみに、「取るに足らぬ序文」とは、キェルケゴールのドン・ジョバンニ論である「直接的エロス的諸段階、あるいは音楽的-エロス的なもの」(『あれか、これか』第一部第二論文)序文の表題である。ウェブ上ではデンマーク語で読むこともできる

1 comment:

Anonymous said...

フランス語では到底フランス人の相手にはなりませんね。

寺田透は『我々がマラルメの名前を知つてゐるのは、誰かから教へて貰つたためだ』と何処かで書いてゐますが、皆ひとまねから始まり、それを自分の言葉で再現すると云ふ訓練を通して自分の思想にするしかないのでせう。勿論こんなことは十分解つた上での、世界水準の研究をされようと云ふことでせうが。

デンマークに行つた時に簡単な言葉を覚えようと思つたのですが、戦後文法が簡単になつたさうですが、発音が難しくて、最後まで覚えられませんでした。

何処かのウエッブ頁で岸田秀がpsychologieと云ふ単語も満足に発音できないのだから、ストラスブールで学位を取れる訳もないと書かれてゐましたが、多分この筆者は外国旅行をしたこともないのでせう。