前回、「けれど、プルーストがあそこまで執拗にサント=ブーヴを批判せずにいられなかった理由を訊ねていくと、二人の距離は必ずしも遠くはない」と思わせぶりなことを言った。このネタで論文を書くつもりはないので(いつか業績作りに困ったら別だが)、ここで簡単に骨子だけ述べておく。
プルーストは『サント=ブーヴに反論する』の中の「サント=ブーヴの方法」という中心的な章の一つをこう始めている。
≪この世で一番言いたく思ってきたことを、突然二度と言えなくなってしまうのでは、と危惧するような時期に、なんなら状況にといってもいいが、私は立ち至っている。感受性の衰弱と才能の破産のせいで、一番言いたかったことというのはもう無理だとしても、その次ぐらいの、きわめて高くきわめて内密な理想と比べれば評価はおのずと低いが、これまでどこでも読んだ憶えはないし、今言わなければ言わずじまいになってしまいそうな、いずれにせよ私たちの精神のさして深からぬ部分に関わると知れた事柄、それをしも言えなくなってしまうのでは、と恐れるわけだ。[…]ここで習い性となった怠惰にとどめを刺し、「光あるうちに仕事をせよ」というヨハネ伝のキリストの良き戒めに従いたいと考える≫(前掲、25頁)。
ここで怠惰と訣別してプルーストが言おうとしているのは、「この世で一番言いたく思ってきたこと」ではなく、少なくとも最低限言っておかねばならないことである。「サント=ブーヴについて、それなりに重要な事柄」(同上)を言おうと決心しているのは、サント=ブーヴの才能の浪費を嘆きもし、また浪費されるほかない才能のあり方というものがあると喝破してみせたプルーストその人である。プルーストはこの並行性に――少なくとも方法論のレベルでは――意識的である。「サント=ブーヴを話題に上せつつ、彼自身がよく使った手だけれども、私はこの人物を、生のさまざまな様相を語るための良き手がかりにしてみたいのだ」。
≪おそらく、『月曜閑談』以後、サント=ブーヴは、単に生活態度を変えただけではなく、強いられてやむなく仕事をする今の生活のほうが、生来、無為に流れやすくて、強制されないと自分の持つ富を放出できないたちの人間には、結局のところずっと多産でもあるし、またぜひ必要なものでもあるという思想に登りつめる――と言えるほど高次な思想ではなさそうだ――辿りつくことになる≫(前掲、36頁)。
才能はまったく発揮しないより浪費されたほうがマシだ、というあまり高尚とは言えない思想――林達夫や浅田彰や、多くのスマートで博覧強記の知識人を想起させる思想――と縁を切り、孤独のうちに籠もり、自分自身と真摯に向き合って文学の仕事に邁進せねばならない。あたかも反面教師に対するように、あたかも自分自身に言い聞かせるように、プルーストは言う。サント=ブーヴは、一度たりとも、詩的感興や文学上の作業には特殊性があり、文学の仕事は、一般の人たちのさまざまな仕事とも、作家自身の、文学以外の仕事とも、まるで違うものだということが分からなかったとおぼしい、と。
≪孤独に浸りつつ、自分のものでもあれば、他人のものでもあるような言葉には、沈黙を命ずる。たとえひとりきりでいようと、自分になりきらないまま物事を判断しているようなとき、私たちが使っている言葉は黙らせてしまう。そして自分自身にあらためて面と向かい合い、おのが心の真の響きを聞き取ってそのまま表現しようとする。それが文学の仕事というものだろうが、サント=ブーヴは、この仕事と会話とのあいだに、どんな境界線も引こうとしなかった。「書くこと…」
実際には、作家が一般読者に提示するのは、ひとりきりで、ひたすら自分のために書いたものであって、それこそが彼自身の作品なのである≫(前掲、34-35頁)。
著者・作家に対するこのような視点は、当然読者との関係、ひいては作品概念をも規定している。
≪…こうして彼[サント=ブーヴ]には、自分の紙上批評が、何かアーチのようなものに思えてくる。起点はたしかに自分の思索や文章の中にあるのだが、終点は読者の心の中にまで延び、讃嘆の念にまで届いていて、そこでようやく虹の円弧も完成するし、色彩も最終的に仕上がるというわけだ。[…]
新聞記事の美は、あげて書かれた記事にあるというわけにはいかない。総仕上げをしてくれる読者の胸裡から切り離されてしまえば、ただの毀れたヴィーナス像にすぎない。そして新聞記事の美は、読者大衆からこそ最終的な表現を汲むものである以上(選りすぐりの大衆であったとしても同じことだ)、その表現にはいつも幾分か通俗的なところがある。あれこれの読者の、声なき賛同を思い描きつつ、新聞寄稿家は自分の言葉の重みを量り、言葉と思索の釣り合いを取ろうとする。したがって彼の作品は、意識的にではないにせよ、他人の協力を得つつ書かれていて、その分だけ、彼独自のものとは言いにくくなっている≫(41-42頁)。
サント=ブーヴを批判しつつ、彼の手法に依拠するとはどういうことか。批評という文学活動の「余技」「灰汁(あく)」のようなものがもつ読者との根本的な対話があるのである。そしてその批評はプルーストが「この世で一番言いたく思ってきたこと」、文学的営為の結晶とすら無関係ではない。このテーゼの論証はしない。これは論文ではないからだ。
最後に、ブーレーズの言葉を引いておく。思えば、ドゥルーズが「より深いというのではないが、別種の、暗黙裡の、(彼は自分の著作の中でしばしばプルーストを引用しているが)言外の関係」をブーレーズと結んでいるものとして指名したのは、マラルメでも、ミショーでもシャールでもなく、プルーストであった(『エクラ/ブーレーズ 響き合う言葉と音楽』、笠羽映子訳、青土社、2006年、299頁)。
≪PB:けれども、小説が進行していくにつれ、形式的な進展がいっそう目立ってきます。それで、『失われた時を求めて』は物語自体についての省察となり、内省は鋭さを増し、芸術創造の核心に触れる問題が扱われていきます。章が進むにつれ、小説としての小説は重要性を失うことが分かります。[…]
彼の結論?文学作品はそれを読む人によって作られるということです。当時としては、そうした記念碑的な作品と向き合う際、人々を面食らわせる結論でした。結局、創造家は、読者を証人とするんです。
――いささか過小評価的な理屈ですね…
PB:そんなことはありません。逆に素晴らしく実り豊かです。プルーストは「作品は、私がそれに与えた意味だけではなく、読者であるあなたが、読むたびに与える意味をも持つ」と指摘していますからね。それは、作者の占有物としての作品を否認することになりますが[言うまでもなく所有の問題系である]、それを読んだり、眺めたり、聴いたりする人のために、作品を昇華することになるのです。
この機会に指摘しておくなら、未完の作品や構想中の仕事はしばしば人々の想像力を豊かにする可能性をもっています。[…]未完の絵をまず嘆賞すべしと言っているのではありません。私が問題にしているのは、示唆に富んだ、意味深いアプローチです。というのも、『失われた時を求めて』の最後の巻は、大急ぎで仕上げられていて、デコボコや矛盾を免れていないのですが、その代わり、文学創造の方法に関する新たな世界を私たちに示してくれているのです≫(上掲、322-323頁)。
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