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この頃の林達夫は冴えていた。三木の「剽窃」騒動を、彼は「学問の共有と私有」の問題構成と結びつける。剽窃、広く盗みの問題は、プルードンを引くまでもなく所有権の問題であり、私有財産の問題なのである。
≪資本家的大盗人から同輩的コソ泥に至る一連の、学問を金にしようとする泥棒…金、金、金…学説所有権の擁護の叫びは、だからとりもなおさずこれらの学問泥棒に対する学者の生活権擁護の叫びにほかならないのだ。学問が社会の共有財産であらねばならぬのに、しかもこれをあくまでも神聖なる私有財産視しなければならぬのは、実にここにその根拠をもっているのである。
かくて資本主義社会では「剽窃」も多くこの角度から取り上げられる面を有し、それが「不労所得」を意味し、「窃盗罪」を構成する場合も少なくないのだ。
では、人は何とかしてこの学問的共有と私有との深い矛盾を取り除くことができるであろうか。我々にとって明らかな一事は、かかる矛盾の克服は現在のままでは資本主義的体制の埒内では決してできないということである。
かくて「剽窃」の問題も資本主義の存続する限り、唾棄すべき財産的犯罪の問題として提起せられる一面を常に保持し続けるであろう≫(『林達夫著作集』、第4巻「批評の弁証法」、平凡社、1971年、158-159頁)。
知的所有権以上に哲学的に問題になりうるのが、固有身体の所有ではないだろうか。いずれ「愛と所有:結婚の形而上学とその脱構築」という研究に取り掛かりたいと思っている。
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林達夫は、日本の思想界において一流の「ゴト師」であった。例えば、彼の西田論「思想の文学的形態」を見よ。「随筆」と「随想」の区別から始まって、西田哲学を常に生成途上にある哲学行為の「随筆」と規定する手つきの鮮やかさ。
ただ、惜しむらくは、西田論の第二部「思想、文学、教育のフランス的三位一体について」が、単なるフランス論に終わり、この三位一体は我が国でどのように考えられ、とりわけ西田の哲学においてどのように考えられていたのかについて、突っ込んだ考察がなかったことだ。
林達夫の思考には――浅田彰にも言えることだが――ほぼ常に深さ、粘り強さが欠けている。西田は随筆的だがやはり哲学であり、林は哲学的だがやはり随筆なのである。パチプロとゴト師の違いと言えば、冗談にも程があると言われるだろうか。ならば、天才と秀才の違いと言おう。
≪鴎外→あらゆるものを内面的に理解しながらそのどれとも自己をidentifyしようとしない冷たさ、それは「秀才」の悲劇である。捨て身にならない。捨て身にならないですむから、――なぜなら、理解力を示すだけで常人よりはるかにすぐれた業績を残しうるから、「理解力に頼りすぎる」≫(丸山真男、『自己内対話』、みすず書房、1998年、5頁)。
天才とは自分の道において呆れるほど馬鹿になれる人のこと、極道になれる人のことを言う。道を極めると書いて、極道と読む。
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