Tuesday, March 13, 2007

自己内対話(ブログに抗するブログ)

murakamiさんからまたまた重要な指摘をいただく。さらに追加情報もいただいた。
http://philosophy.cognitom.com/exec/page/page20050703222358/

他の人に誤解のないように言っておけば、私がmurakamiさんに敬愛の情を抱くのは、彼が彼のフィールドで精力的に活躍されているからであって、彼が私のブログを読んでくれる、あるいはそこに書き込んでくれるからではもちろんない。

思想における友情あるいは愛は、ブログへの書き込みからは生じない。なぜならブログも書き込みも所詮その程度のものでしかないからだ(これは日常会話でも同じである。社交的に振舞うことはどんな場合にも望ましいことだが、そこに過剰な意味を見出すべきではない)。

少なくとも思想の世界では――いや、おそらくありとあらゆるプロフェッショナルの世界でも同様だろう――逆なのだ。大事なのは「人」ではない、「アイデア」だ。あらゆる意味におけるideaである。

したがって思想的ブログにおいて大事なのは、思考の断片的なアイデアが流通すること、最低限、貴重な情報が流通すること、そしてそれらが電脳空間の外で現実化・具体化することだ。実際の「出会い」が、効果的な「出来事」がそこを通じて(そこから、ではないとしても)生じること、それがすべてである。

この「外部」はまた、思想の「外部」でもなければならない。私が、この思想系ブログ以外のブログ(政治・社会系、語学系…)を、区別しつつも、連動させているのはそのためである。ドゥルーズの言うとおりなのだ。

≪ある一つの分野はみな、それぞれの仕方で非なるものと関係している。

芸術は、芸術家でないこの私たちを育成し、覚醒させ、私たちに感覚する仕方を教え、哲学は概念的に理解する仕方を教え、科学は認識する仕方を教える――それだけのことを言っているのではない。そのような教育法が可能になるのは、それぞれの分野に関わっている〈非〉に対して、その分野がそれ自身の側で本質的に関係している場合だけである。

芸術が非芸術を必要とし、科学が非科学を必要としているように、哲学は、哲学を理解している或る非哲学を必要とし、非哲学的理解を必要としているのだ≫(『哲学とは何か』結論)

ここに丸山真男の言葉が反響する。

≪若いうちに、感受の弾力性があるうちに、異質的なものと対決せよ。Stirb und werde ! ≫(『自己内対話』)

私のブログはブログ的ではない。ブログは、私が研究論文としてでなくエッセイという形で言いたいことを載せる最良の形態ではないのだろう。別にそれで結構だ。私にとって、ブログとは「井戸端会議と投瓶通信のあいだ」(penses-bêtes japonais, 2007年2月4日の項)にある何かなのである。

さらに、こうも付け加えよう。時流に抗して、私が思想的ブログでまず突き詰めたいと思っているのは、自己内対話のほうなのだ、と。

≪国際交流よりも国内交流を、国内交流よりも、人格内交流を!自己自身の中で対話をもたぬ者がどうしてコミュニケーションによる進歩を信じられるのか。

論争がしばしば無意味で不毛なのは、論争者がただもっともらしいレトリックで自己の嗜好を相互にぶつけ合っているからである。自己内対話は、自分の嫌いなものを自分の精神の中に位置づけ、あたかもそれが好きであるかのような自分を想定し、その立場に立って自然的自我と対話することである。他在において認識するとはそういうことだ。≫(丸山真男、『自己内対話』。1967年3月の最終講義メモ)

「まず」とわざわざ強調したのは、英語で『日本政治思想史』や『日本の思想』を発表し、座談の名手であった丸山のこの文章内に、不可視の、しかし確固たる「まず」を読み取れない読者のことを慮ってである。私は常に「両面作戦」(pratiques théoriques, 2004年11月1日の項)の支持者である。

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