Wednesday, March 14, 2007

ゴト師(壮年の林達夫を読む)(上)剽窃…

15日の締め切りが近づいてきた。5月下旬の仏文学会用の発表要旨提出期限である。メタファー論は今のところこれ以上進められない。アナロジーの問題を入れたい。この間の発表でも「メタファー論だけだと、きれいにまとまりすぎてる」と指摘を受けた。そのとおりだ。

rythmeとmesureを組み合わせたときのように、見掛けは似ているけれど実は異質で、しかし緊張関係にあるという二つの項を衝突させることで何かが見えてくる、という手法はスリリングで好きだ。メタファーとアナロジーがそうなるかどうかはまだ分からないが。



2月上旬に書いたもの。

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さまざまな器具等を使用し、パチンコ店等で不正に出玉を獲得する人を「ゴト師」という。まあ要するに、いかさまをやる人のことと思ってもらえばいいだろう。ここでは、「ゴト師」という言葉をもちろん犯罪的な意味においてではなく、広義の意味で用いる。



林達夫は、広義の意味での「ゴト師」の側に自分を置き入れた。板垣直子の三木清に対する「剽窃」告発騒動のさなか、「いわゆる剽窃」(1933年)という文章で三木を擁護したときのことである。

「もっとも仮借なき《職業的》廓清家(レーニンのいわゆる職業的革命家と同じような尊敬的意味で)」たる板垣直子の「秋霜烈日の如き断罪的方法」に、林達夫は「多少ともかの中世的スコラ的宗教裁判方法に似通う形式主義、機械主義、末梢主義への危険」を嗅ぎ取る。

いわゆる剽窃は日本の今日の現象であるばかりでない。シェークスピアやモリエールやスタンダール。プラトンやデカルト。古来その独創性を以って鳴る西洋の大文豪や大学者のうちにさえ、証拠歴然たる剽窃行為が見出される(しかも当の張本人たちがその正当性を主張している)。

人類社会の共通現象であるとも言えそうで、となると、他人の思想や文句のドロボウ、インチキ師、ゴト師は、無数に世界を横行していることになる。何という恥ずべき、嘆かわしい犯罪的世界!

むろん林達夫はありとあらゆる剽窃を擁護しているのではない。「私がこんなことをいいだしたのは、いわゆる剽窃にはピンからキリまであるということがいいたかったからだ」。そこで林は、板垣夫人とはまったく異なる見解をもつ知識人を引く。アナトール・フランスである。

かつてドーデが剽窃のかどで攻撃されたとき、彼はドーデの擁護者として立ち、有名な「剽窃の擁護」を書いた。詳しく知りたい人のために原典を挙げておく。

Anatole France, "Apologie pour le plagiat", Le Temps, 4 janvier 1891, reprise dans La Vie littéraire, quatrième série, Paris, Calmann-Lévy, 1924, pp. 157-167.

BNFでは原本をウェブ上で読むことすらできる。日本の知識人の端くれとしては羨ましいというほかない。「フランスを羨ましがってばかりいないで、日本の厳しい現実を見たほうがいい」としたり顔で忠告してくれる人もいる。だが、まず夢見るところから始めなくて、この国に何が残されているのか。

アナトール・フランスによれば、剽窃家とは、何でもかでも、他の家から家財でも雑巾でもゴミ箱でも滅茶苦茶に盗んでくる人間のことであって、かかる輩は思想の殿堂に住むに値しない。

「だが、他人から自分に適したもの、得になるものだけを取る作家、選択することを心得ている作家について言うならば、それは立派な人間である」。

また、アナトール・フランスによれば、それは「節度の問題」でもある。「人はミツバチのように他に迷惑をかけずに盗むことができる。だが、穀粒をまるごと略奪するアリの盗みは決して真似してはならぬ」。
つまり剽窃には二つあるのだ。法のレベルに納まるものと、法の概念そのものを揺るがし、ひそかにその根本的刷新を促すものと(アンチゴネーを剽窃の問題から考えることも出来るかもしれない)。

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