Sunday, December 30, 2007

二十歳の微熱?(「哲学と大学」のために)

プロ野球選手は、選手として自分のパフォーマンスを最大限に上げることを目指すと同時に、一事業主として、自分たちの属するプロ野球界がより公正で、より魅力ある形で発展するよう、議論を怠らない。若手選手であろうが、同じことである。

若手研究者はよりよい研究をすることにだけ没頭していればよいのだろうか?私は「政争」などに首を突っ込もうとは思わない。ただ、自分の置かれた状況に関して、その「歴史」を学び、その「政治学」を学び、哲学的な分析を施し、そのことによって状況がより開かれたものになるよう、稚拙ではあれ、絶えず試みたいとは思う。

私個人の研究は、それがいかに拙いものであれ、研究史を学び、その問題点を浮き彫りにすることで当該分野の刷新に貢献しようとする問題意識に貫かれている。

問題意識に貫かれた研究をするだけでなく、問題意識そのものをすでに何度も公表している(「世界におけるB研究の現在」「観客でも批評家でもなく」)。

状況に対する批判的考察だけでなく、積極的な「介入」も行ないうる限り行なっている。例えば、国際シンポジウムをやる。ただし、西欧の有名な研究者を読んでお話を拝聴、そんなことはやらない。彼らを呼ぶとしても、それはガチンコ勝負の場を用意するためであり、日本の第一線の研究者たちにフランス語で発表してもらうため、その現場を若手研究者たちに見せるためだ。

このような発想は、過去数十年の日本の哲学研究に対する私なりの見方から出てきた私なりの回答である。つまりは、私なりの「理論的介入」であった。何人かの若手は本当の意味でインパクトを受け取ってくれたように思う。それは彼らの今後の行動で分かってくるだろう。

自分がそこに身を置いてものを考えている「場所」について考え、書き、そして介入すること、この「理論的実践pratiques théoriques」なしに哲学的思索の深まりなどあり得ない。これが私の素朴な、しかし深い信念である。

日本において哲学は大学で展開されている。哲学の唯物論的基盤は大学であり、日本の哲学的思考は大学という知の再生産機構によってその形態・内容を規定されている。だが、「哲学と大学」という結びつきは決して普遍的に自明な事柄ではない。そしてだからこそ問いかけねばならないのだ。哲学と大学はいかなる関係を結んでいるのか、結びうるのか、と。

「哲学と大学」と言ったとき、単に「哲学科」のみが問題になっているわけでもないし、教えられる学科内容としての「哲学」だけが問題になっているわけでもない。

私がこの問題について考え始めたのは最近のことではない。新しいのは、少人数ながら同志を得て、共に考え始めたこと、このことである。

レディングズを読み、『諸学部の争い』を読み、フンボルトを読む。それは、哲学・思想研究者なら誰もが通り過ぎる「二十歳の微熱」なのだろうか?そうかもしれない。だが、そうであるとしても、日本の過去数十年の思想的・政治的状況は、まさに、「それは誰しもが通り過ぎる道」と言いながら、実は誰も真に通り過ぎてはいなかった、誰も共に通り過ぎてはこなかったという事実を端的に示してはいないだろうか?

大学論も哲学論も教育論も教養論も山ほどある?そのとおり。そして結果は、西洋哲学の観客であり批評家である。日本の現状に対して毒にも薬にもならない観客であり批評家である。「教育再生会議」!

哲学には現実を分析し、分析によって介入する力があると信じるのか否か、問題はそれだけだ。哲学史は哲学の重要な一要素だとは思うが、哲学のすべてだとは思わない。

「教育の哲学、哲学の教育」「結婚の形而上学とその脱構築」「旅行の哲学。世界観と遠近法主義」、他人から見てどれほど幼稚に見えようとも、私にとってはどれも哲学的なessaiなのである。

No comments: