子供の風邪が直撃、ただでさえ忙しいのにまたダウンしてしまった。風邪をひくと、アトピーが多少楽になるのが唯一の救い。最近読んだ本。
b研究:
Paulette Kayser, Emmanuel Levinas : la trace du féminin, PUF, coll. "Philosophie d'aujourd'hui", 2000.
内田樹、『レヴィナスと愛の現象学』、せりか書房、2001年。
当たり前と言えば当たり前なのだが、レヴィナス研究者として、レヴィナスの言う「女性的なもの」をいかにポジティヴに読めるか試みた二冊。ただし、方向は真逆。前者はレヴィナスに女性的エクリチュールの可能性を見、後者はレヴィナスを批判するイリガライの女性的エクリチュールを疑問視する。
大学論:
潮木守一、『世界の大学危機 新しい大学像を求めて』、中公新書、2004年。
ドイツが最も詳しく、一次文献にあたっている感じがある。次にアメリカ。イギリス、とりわけフランスに関しては二次文献のつぎはぎという感が否めない。しかし、以上四カ国の大学の基本的なシステム、社会的な位置、問題点などをてっとり早く知るのに便利。
結婚論:
工藤庸子、『プルーストからコレットへ いかにして風俗小説を読むか』、中公新書、1991年。読了
寺田透、『人間喜劇の老嬢たち バルザック一面』、岩波新書、1984年。
モーリス・ルブラン、『アルセーヌ・ルパン名作集4 アルセーヌ・ルパンの結婚』、岩波書店、1997年。読了
工藤庸子の文章はとても読みやすい。ひとまずこの路線(フランス文学における風俗現象としての結婚)で手当たり次第に読んでいく。
偉大な哲学者は皆、文学ともっと深く切り結んでいた。哲学は芸術を必要とする。文学を必要とする。 偉大な哲学者は皆、日常ともっと深く切り結んでいた。愛を論じ、家族を論じ、風俗を論じ、結婚を論じていた。
その他:
大友浩、『花は志ん朝』(初版2003年)、河出文庫、2006年。読了
志ん朝と談志の比較はこの小著の理論的白眉。《「現代」を標榜する談志が、一方で「懐かしさ」に深く囚われ、「伝統」を志向するとみなされている志ん朝が、その時その時の「今」を素直に楽しんでいる…談志の中では、現代と過去とが鋭く分離してせめぎ合っているのに対して、志ん朝の中では、両者は自然に溶けて一つのものになっている》とは真に至言である。
この手の本にはべた褒めが多いが、本書は志ん朝の昔気質の負の面(「女真打」の創設など)をも語っており、目配りがきいている。ただ、最後の小三治のインタヴューは要らなかった気がする。小三治の良さは、いじいじとした鬱屈、愛嬌のあるひねくれなのだろうが、彼が志ん朝を一貫して圓生型の落語家としか見ないのはまったくの不見識だと思う。「いわばハードディスクのフォーマットを[八代目]正蔵によって行なった」志ん朝は、その後、「変幻自在な草書の芸の志ん生に対して楷書の芸と言われ」た八代目文楽を目指したのであって、六代目圓生のうまく芸に昇華された性格の悪さは志ん朝には全く見られないのである。太陽と月は見紛う筈もない。
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