Monday, January 07, 2008

有限性をめぐって(1)ブーリオー

有限性(finitude)という概念について少しでも考えを深めたい。そう思って、二冊の本を併せ読んでいる。

Christophe Bouriau, Aspects de la finitude. Descartes et Kant, Presses universitaires de Bordeaux, coll. "Histoire des pensées", juin 2000.

Françoise Dastur, La mort. Essai sur la finitude, PUF, coll. "Epiméthée", septembre 2007.

後者については説明するまでもないだろう。フランスを代表するハイデガー研究者の一人である。前者ブーリオーには、ドイツ観念論、新カント派、現象学者によるさまざまなカント読解の要点をコンパクトにまとめた

Lectures de Kant. Le problème du dualisme, PUF, coll. "Philosophies", octobre 2000.

がある。まず、ブーリオーの著書『有限性の諸相。デカルトとカント』から見ていこう。


1.新カント派によるカントとデカルトの接合
デカルトについては、コーエン以来、ナトルプやカッシーラーなどドイツの新カント派による「批判哲学的」読解の伝統があった。周知のとおり、新カント派によるカント読解の最大の特色は、カント哲学の認識論的側面の強調である。ヘーゲル流の自然哲学が学=科学を完遂するというヴィジョンが崩れ去った19世紀後半、哲学に残された唯一の道は、より謙虚に科学的言説の真偽を問い質すことであるように思われた。すなわち存在者についての学=科学たろうとするのではなく、学=科学の批判理論としての認識論として生き残りを図ったのである。

コーエンおよびマールブルク学派によるこのようなカントへの回帰は、『純粋理性批判』を自然科学の認識論と見なし、あらゆる哲学的な試みのモデルとした。当然、カント以前の哲学も、カントを尺度にして測られることになる。自然科学の可能性の条件を追究した理論家デカルトがこうして誕生することになる。パウル・ナトルプの1882年の著作『デカルトの認識論。批判哲学の前史のために』は表題自体が雄弁に当時の読解格子の在りかを物語っている。

2.ハイデガーによるカントとデカルトの分離
この「カント=認識論」解釈に対して、これまた周知のように、ハイデガーは公然と異議を唱えた。当然、「デカルト=カントの先駆者」図式も完全否定である。ハイデガーによれば、カントは存在者の学たる自然科学についていかなる理論を打ち立てようとも望まなかった。彼が打ち立てようと望んだのは存在者全般に関する理論なのであって、何らか特定の存在者の領域に関する理論ではない。要するにカントの批判哲学は、自然科学はいかに可能となるかを探る認識論ではなく、形而上学は学として成立しうるかを問う一般存在論、すなわち存在者一般に接近するための諸条件を探究する理論なのだ。

このようなハイデガー的なカント読解からすれば、魂と身体の区別や神の存在証明などについて、あらかじめあらゆる客観的認識の可能性の条件を問い質すことなしに形而上学的認識を増大させられるとするデカルトは、カント的な批判意識とは何の縁もない、純粋理性の限界を知らない、独断論哲学だということになる。

3.ブーリオーによるカントとデカルトの離接=分離接合(新カント派とハイデガーの間で)
ブーリオーの立場は、新カント派とハイデガーの間を取ることにある。彼は一方でハイデガーの前提を共有する。すなわち、批判哲学を存在者全般に接近する諸条件の探究、人間に与えられた認識能力の限界に関する探究と解することに賛同する。しかし他方で彼は、それでもなおデカルトとカントを接近させようと試みる。すなわち、

「たとえカントの批判哲学のうちで、可感的な認識機能すなわち感覚と構想力に与えられた決定的な位置を強調し、感性によってあらゆる理論的認識に課せられた限界を強調することにしたとしても、デカルトがそのような批判哲学的発想から完全にかけ離れたところにいると言いきることはできない、と示せればと思う」(p. 20)。

デカルト思想の独断論的な側面からカントの批判が達成した前進を忘れ去ることなく、しかしながら本質的な点で、すなわち感性(可感的なもの)の地平そのものの上で、デカルトとカントはある直感を共有していたのではないかと問うこと、そのためにデカルトの認識論における感性の地位と役割を分析すること、これがブーリオーの意図である。

この意図を実現すべく、一方で彼は、デカルトとカントにおける可感的な認識機能の比較分析を行なう。デカルトが認識において想像力に与える位置は、彼の「独断論」の後継者たち(まさにカントが『純粋理性批判』において糾弾した人々)、すなわちライプニッツやスピノザにおけるそれとはまったく異なると示すことで、いわばデカルトを「救い出す」ことを試みる。

他方でブーリオーは、デカルトの独断論というイメージを緩和すべく、永遠の真理の創造というデカルトの説を再検討する。たとえデカルトが形而上学的認識をあらゆる種類の可感的直観とは独立に拡張しようとしたことが事実である(そしてこれは紛れもなく独断論的な姿勢である)としても、そのような認識は、創造された我々人間の理性に内在的な限界、すなわち有限性の意識と切り離せない、したがってその意味では、カントの主張した人間認識の相対的な性格を十全に引き受けるものである――というのである。

次回、幾つかの章を具体的に見ていくことにしよう。

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