Sunday, April 13, 2008

オプティミズムの重さ

ベルクソン情報
・2007年4月にトゥールーズで行われた日欧シンポジウムのヴィデオがようやくウェブ上に公開された。


ベルクソン研究。相も変わらず「有限性」概念の周囲をうろうろしている。ベルクソンは「エラン・ヴィタルは有限である」と倦むことなく繰り返すが、その正確な射程はどこまで届くのか。

郷原佳以さんの「死体の重さ、あるいはアネット・メサジェの反ベルクソニスム」(2007年12月28日)とは相当近いところで交差している気がする。

郷原さんは、ベルクソンに欠けているのは「死」の問題ではなく、より正確に言えば、《つねにすでに「死んでいる」状態で「生きている」こと》としての「不死」の問題だと指摘する。「不死」が「生き残ってしまった」「死に損った」という感情を抱きつつ生き続けることなのだとすれば、彼女の指摘は、「アウシュヴィッツ以後、ベルクソン哲学は可能か」とも言い換えられるであろう。

「なのだとすれば」――しかし、おそらくそうではない。メサジェにおいて問題となるのは、死んだも同然の(しかし死んではいない)「生者」でもなければ、完全に死にきった生物の「死体」の現実的な重さでもない。鳥の死骸が大量に貼られた作品にあっても、問題となるのは、それが「かつて生きていた」という量的で現実的な存在感ではなく、あくまでも生なきものが眼差してくるという「奇妙なリアリティ」の方に力点がある。メサジェの作品を特徴づけると同時に、ベルクソニスムを「20世紀後半のある種の思想や芸術から決定的に隔ててい」るのは、あたかも活きているかのような「無機物」の亡霊的な息づきなのだ。
《たとえば床の上に無造作に投げ出されて襞を拡げたコートが、時と場合によっては何かきわめて恐ろしいものに見えることがありうる。[…]物体が「不気味なもの」として現われてくるのは、それが道具としての機能を停止させ、それ自体として生気を帯びてくるときではないだろうか。無機物は「死んでいる」ことにおいて生物に似始める。そして幽霊のようになる。》
郷原さんのデリダ=ブランショ的な幽在論(hantologie)とすれ違う形で、ここで考えてみたいのは、ベルクソン的な幽在論の可能性である。伝統的な語彙で言えば、ベルクソンにおける「物質性」概念の可能性である。
《ここ[メサジェの作品]には死の「切迫性」など皆無である。ここに見出されるのは、一瞬先に待ち構えているかもしれない可能性として私たちの「生」をたえず脅かし続け、そのことによって私たちの「生(ヴィ)」を「死活に関わる=生気ある(ヴィタル)」ものにする「死」、つまり「生」を脅かすことによって「生」を活性化させる「死」ではない。あるいは端的に、ベルクソン的観点からすれば、そこには「死」などない、たんに「物質」の支配があるだけだ、ということになるかもしれない。確かにメサジェのオブジェはすべて「物質」であるだろう。》
そのとおりである。ベルクソン的観点からすれば、そこには「死」などない、たんに「物質」の支配があるだけなのだ。問題は、その物質とはどのようなものなのか、を知ることにある。ベルクソン的な物質とは、我々がその抵抗自体を糧として生命活動へと取り込み生きるもの、「生を活性化させる脅威」にすぎないのではないか――この指摘は、私が昨年の日本篇で行なった発表(「生物の丹精=産業」)の限界を衝いている。私の狙いは、物質のしなやかさ(élasticité)、『創造的進化』第二章の産業的次元を強調することにあったのだから。だが、では、物質のもつ「不気味」な影の側面はどうなるのか、と郷原さんは問うている。

この問いには、ベルクソニスムを『物質と記憶』の方へと遡る仕方と、『二源泉』のほうへと下る仕方と、二つの仕方で答えることができるように思われる。6月にブラジルで行なう発表ではもっぱら前者の冒険的なアプローチをとるので、ここではより穏当な後者のアプローチをとることにする。

たしかにベルクソンは、フロイトやハイデガーのように「不気味なもの」の思想家ではない。ベルクソン的宇宙を、メサジェのオブジェ群が構成するような、負のエネルギーに満ちた宇宙として描き出すことも問題にならない。光と影の鮮明なコントラストに一瞥を投げかけた後で、しかしながら、ベルクソン研究者にとって重要なのは、生と歓喜の思想家の微細な陰影を浮き彫りにしていくことであろう。

《なるほどベルクソンも「死」をたえず視野に入れていただろう。しかしそれが、「生」を活性化させる脅威として、「生」の側から「死」を眺める眼差しであったとすれば、メサジェのオブジェは「死」の側から、「生」を照らし出す。そしてこれが現実なのではないか、と囁くのだ。私たちは大量の死体のうえに、「生きている」のではないか、と。》
そのとおりである。「これが現実なのではないか」「私たちは大量の死体のうえに、《生きている》のではないのか」。『創造的進化』の後、長い沈黙に入ったベルクソンもまた、そう呟き続けたように思われる。一次大戦を目の当たりにし、ナチスの影と近づく二次大戦を予感しつつ、『道徳と宗教の二源泉』を発表するのはようやく1932年のことにすぎない。

ベルクソンが『二源泉』で「生」の側から「死」を眺める眼差しを放棄したというのではない。『二源泉』は、「死」の側から「生」を照らし出す不安の哲学は「理性の不安」の産物にほかならないと説きさえするだろう。だが、重要なのはそこではない。そう説くと同時に、生と死の「彼岸」を垣間見ようとすることが、もはや矛盾とならないような地点、それをこそ『二源泉』のベルクソンは目指すことになる。この幽在論がペシミズムより峻厳なオプティミズムであるのはたしかだとしても、それはまだ哲学であり続けるだろうか。重要なのは、この「哲学とその外部」の問いである。

郷原さんがベルクソンを「20世紀後半のある種の思想や芸術から決定的に隔ててい」るとしたその切断線はまさに「ベルクソニスム」そのもののうちに、すなわち『創造的進化』と『二源泉』の間に、おそらくは哲学とその外部という形で、引かれているのだ。

哲学者は言う。人は死の淵に立つことはあっても、決して死そのもののうちに立つことはできず、死を語ることも、ましてや死の側から生を見ることなどできない、と。文学者は混ぜ返す。ポーのヴァルドマール氏を見よ、と。

――文学的フィクションではないか。――いや、芸術の虚構こそが語りうる生の現実というものがある。――だが、そうだとすれば、その言説形式はもはや哲学ではなく、「死そのもの」や「死から見た生」は単なる哲学の限界内では語りえぬものなのではないか。――いや、「脱構築」ないし「蓋然性の交切線法による哲学の進化/深化」は、まさにそれを可能にするのだ。というよりむしろ哲学とは常にすでにそのような遂行的矛盾を犯す罪深いものではなかったか。

「無限の対話」は続く…

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