Friday, April 04, 2008

メデアにおける感情の振動

最近岩波が出している幾つかの哲学系の双書・叢書にはまったく興味が持てないのだが、神崎繁(かんざき・しげる)さんの『魂(アニマ)への態度―古代から現代まで』(岩波書店、双書《哲学塾》、2008年3月)には興味を惹かれた。

「ギリシャ悲劇からキリシタン版まで、創造的な誤読の歴史を追って」という帯の文句にも惹かれたが、何といっても七日間の集中講義の形式をとった本書の第四日目《メデアは理性のゆえに狂った―「葛藤」と「振動」》が読みたかったのである。

もう誰も覚えていないだろうが、実は若かりし頃からメデアには興味を持っていた(2000年11月28日2001年1月8日のポストを参照。MLに書いていた気安さもあって実に恥ずかしい文体だが、過去を消去することはできないのだからしょうがない)。

今回再びメデアのことを考えているのは、結婚論のためである。アンチゴネーとともに、家族の問題を考えるうえで外せない神話的形象であろう。

で、さっそく神崎さんのこの章を貪るように読んでみた…のだが、少なくとも結婚論や家族論には役立たない。むろん神崎さんにとってのポイントはそこにはないわけで、「役立たない」などと言われても困るだろうが。

彼にとってのポイントは、意味が正反対になっている1960年と1990年の日本語訳の比較を通じて、メデアの内面的葛藤は、感情と理性の二項対立(すなわち〈夫に対する怒りから来る子供への殺意〉と〈子供への慈愛〉の対立)ではなく、一つの魂の揺れ動きとして捉えられるべきものになるということ、彼の言葉を借りれば、魂の複数部分の「葛藤」ではなく、一つの魂の「振動」が――葛藤という言葉を用い続けるなら、「共時的葛藤」ではなく「通時的葛藤」が――問題となっているということだ。

神崎さんはこの「振動」がエウリピデス版とセネカ版の両方に見られるものであるとし、したがってセネカにあって問題となるストア派的な感情排除と悲劇作家としての感情過多の矛盾(に見えるもの)は解消されると主張する。

これはこれでストア派理解に役立つのかもしれない。しかし、残念ながら、メデアという女性や『メデア』という作品の理解が深まるようには、少なくとも私には、思われない。

ただ、問題の『メデア』のたった二行をめぐるニーチェとヴィラモーヴィッツの論争(一方的反駁)が「近代の西洋古典学自身の揺籃期」の核心近くに位置することになった経緯を含め、興味深いディティールに満ちているので、読んで損はないだろう。

ヴィラモーヴィッツの名前を覚えたのは、二十世紀に主に政治(学)的な文脈で提出された実に多様なプラトン像を紹介した佐々木毅さんの『プラトンの呪縛―二十世紀の哲学と政治』(1998年初版。講談社学術文庫版、2000年)であった。

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