四月から始まる新学期に向けて、ハイデガーの講義録を読み漁っている。前期は古代哲学全般を扱うので、例えば『全集』第22巻の『古代哲学の根本諸概念』などが参考になる。
ハイデガーを読んだこともなく毛嫌いしている人のために申し上げるが――私はけっこう読み、評価も最大限にしたうえで、それでも好きでないのであるが――、ハイデガーの講義録は面白い。純粋に面白さということでいえば、ベルクソンやフッサールの講義録より面白い。なぜか。
個々の哲学者に関するハイデガーの知識が参考になるのではない。それは、私程度の者でも、大方すでに手に入れていたものである。そうではなく、それらのマテリアル(ひいては西洋哲学の全歴史)を自分独自の見取り図に従って曲がりなりにも読み切ってしまうという力業に感心してしまう。
講義という場を使って、自分の読みを実際に検証しようとしているところも凄い。こう言うと、「学生を自分の研究のために犠牲にしている」と思われるかもしれないが、まあ講義録を読んでみてほしい。そういう印象はまったく受けない。
ハイデガーをよく知っていたアーレントは、自分が罠にかかることを見世物にし、遂には自ら〈罠=神殿〉のご本尊になってしまった狐にハイデガーを譬えたことがある。哲学史の読み替え作業という「脱構築」の、パフォーマンスとしての側面をアイロニカルに指摘したわけだが、裏を返せば、見世物としては人を惹きつけてやまない何かを持っているということでもある。
もちろん、1926年当時の大学が(一般教養用の入門講義ということを差し引いても)このレベルの講義を許したということは当然ある。当時の大学は(いずれにしても我々の時代とは比べ物にならないほど)少数者に向けて開かれた「エリート大学」である。しかし、すべての教授がハイデガー・レベルの授業を行なっていたわけではないし、行ないえたわけでもない。
戦前の東大を例にとろう。竹内洋『大学という病――東大紛擾(ふんじょう)と教授群像』(初版2001年)、中公文庫、2007年、第2章「黄色いノートと退屈な授業」のとりわけ「一ノート二十年」「半分も休講」などの節を参照。
彼の読みの独創性以外に、魅力の一部は、学生を挑発的に巻き込んでいく仕方にもあるだろう。〈無くて済ましうるもの〉が〈本質的なものとして留まるもの〉であることを「示す」その仕方に。
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《必要なのは、まず「学ぶこと」を学び、諸々の尺度について知ることから、再びやり始めることである。単に新しい、いっそう簡便な「教科書」を採り入れることによっては、精神的堕落は食い止められない。[…]
ときおりは「本も読む」、こう言って弁解するなどとは俗物的なことである。「教養」を往々にして「統計」や「雑誌」、「ラジオ・ルポルタージュ」や「映画館」だけから仕入れてくる当今の人間、そうした雑駁きわまる純然たるアメリカ風の人間が、はたして〈読む〉(lesen)ということが何を言うか、なお知っているのか、知りうるのか[…]。
〈自分の必要とするもの〉を拠り所とするというのであれば、それは諸君の今の場合であれば、職業教育をできるだけ楽に済ましてしまうのに必要なものを追っかけるということである。それに反して、今我々が、前線にある何人もの若き同胞の場合と同様、最悪の状態に直面した時、〈無くて済ましうるもの〉に注意を払いうるならば、そのとき、一に本質的なものとして留まるものは、ほとんどおのずからのごとく眼差しのうちに入っている。
さて、ここで我々がどのような決定を下すかを示す印は、一方の者は「哲学講義」をとるが、他方の者はそうしない、というような点に存するのではない。[…]これは誰も何らかの印とか証明書で直接に確かめることはできない。ここでは誰にせよ、自分自身と、見せかけの自分と、自分がそれに向けて心構えをしているその当のものとに、委ねられている。》(ハイデガー、『根本諸概念』、1941年夏学期講義)
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