私と同世代の優秀な研究者がそれぞれ素晴らしい発表をされた。
特に、ナンシーの政治的存在論に関する発表について一言しておきたい。論旨の明快さ、結論のつけ方には工夫の余地があるとしても、非常に重要なテーマに取り組んだ意欲的な発表でよかったと思う。
ただ、ああいった場――学会発表ではなく、一般に開かれたセミナー――では、単純化を恐れずに、論旨を明確化していったほうがいいということはある。現代思想に詳しい人ばかりではないし、むしろ現代思想に反感を持つ人もいるし。
そういった人たちに向けていかに語りかけるかということも考えて、研究を続けて行かれるとよいのではないか。
(ただし、単純な発表をせよ、ということではない。現代音楽の作曲家が、作品発表の場を与えられたら、思い切って自分のすべてをぶつければよい。聴衆に妥協する必要など一切ない。ただ、その後の聴衆との議論で、明快な論理で自分の作品を擁護できる必要はある、ということだ。デリダも会の性質に合わせて言葉や戦略を選んでいたとはいえ、嘆かわしい妥協を是とはしなかったはずだ。)
たとえば、伊達さんがおっしゃっていた、FuretやGauchetといったいわゆる「現代思想」系からは少し離れた人たちの議論も視野に収めることで、より豊かで、現代思想系の人以外にも通じる議論を発展させられる。
伊藤さんの「ナンシーの言説における歴史性の欠如」への批判についても、
伊達さんの「神の死以前との対比」(あるいは哲学と政治はギリシアで創始された云々まで含めて)
に関する提案についても、カストリアディスなどを参照するとまた違った回路が開けるかもしれない。
私はあの会議のメンバーたちに、現代思想系の議論の生産的な部分を知ってほしいし、
脱構築的な論理が単なる韜晦であるという意見にはまったく賛同しないが、かといって私は現代思想系のジャーゴンや論理に「乗っかる」だけで新しい何かが見えてくるとは思っていない。
生産的な議論のために、自分の限界を乗り越えること。
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