Sunday, March 22, 2015

【クリップ】日本の大学入試はフランスに170年遅れている!

説明の必要はないと思いますが、これは単なる情報提供です。私がこの意見に賛成か反対か、どのように、いかなる点で、どの程度まで賛成か反対か、というのはまったく別次元の問題です。hf


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日本の大学入試はフランスに170年遅れている!



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フランスの大学入試制度は日本と大きく異なる。写真はソルボンヌ大学Photo:puku/PIXTA
● 高校生にハンナ・アーレントを 解説させる仏のバカロレア

 以前のコラムで、大学入試の制度改革にあたっては、マークシート式の知識偏重型から知識を総合的に運用する論述型の試験に切り替えるべきと申し上げました。フランスのバカロレアは、そのままの形で日本に輸入することは難しいですが、日本のセンター試験と異なり、ほぼすべてが論述形式で執り行われるところ等は大いに参考になります。

 ここでフランスのバカロレアのあらましに簡単に触れたいと思います。バカロレアとは、中等教育修了認定資格と大学入学資格を付与する試験です。創設されたのはナポレオン1世が統治していた1808年にさかのぼります。貧しい貴族の家に生まれ、一代で皇帝に上り詰めた英雄らしく、人材を発掘するために導入した経緯があります。

 日本で知られているバカロレアは、このナポレオンの時代からの大学入学資格を与える「普通バカロレア」のことですが、第2次大戦後にできた、専門職を対象にした技術バカロレア、進学をしない高卒資格付与の「職業バカロレア」もあります。フランスではバカロレアを取得できなければ、待遇のいい仕事に就けないと言われているので、良い点を取るためにあえて留年する高校生も大勢いるそうです。

 今回は大学入試の参考例としての紹介なので、普通バカロレアの話に絞ります。普通バカロレアは資格を取得すると、フランスの全土のどの大学にも入ることができます。

 センター試験と同じく、高校の最終学年の生徒が全国一斉で受ける図式は同じですが、マークシートで機械的に回答させる我が国のそれと全く異なり、バカロレアは論述式です。しかも面白いことに、3種類のバカロレアのいずれも最初に受ける科目が「哲学」というのがお国柄です。

 哲学では受験生は4時間をかけて回答します。ちなみに2014年の出題は3問。経済社会系向けの問1は「自由になる選択権があるだけで十分か? 」、問2は「なぜ自分自身のことを知ろうと努めるのか? 」と、それぞれ論述させ、問3では、私の敬愛するハンナ・アーレント『人間の条件』を解説させたというので驚きました。

● 仏で“知識偏重”が 問題視されたのは19世紀! 

 一方、日本で高校生が学ぶ哲学といえば、社会科の倫理や歴史の授業の文化史。それも入試では人物や著作、理論の名前の暗記力を確認しているのです。

 フランスでは数学も答えが1つではなく、そのプロセス、ロジックをむしろ評価するそうで、「考え抜く」力を明らかに重視していることが分かります。

 歴史の問題も同様に論述をさせますし、物理・化学は口述があります。

 歴史に関しては、日本の国立大学の2次試験のような趣ですが、バカロレアの歴史は4時間、東大は2時間半ですから、論述の量、深さにおいて、要求されるレベルの高さがうかがえます。しかも、これを日本で言えばセンター試験のように全国一斉で問うているのです。

 ただし、面白いのはバカロレアも最初から現在のような知識運用の論述型になったわけではないということです。今回の視察ではバカロレアを統括する国民教育・高等教育・研究省の高官から「フランスでも時間をかけて改革してきた」という趣旨の興味深い話を聞くことができました。

 帰国後に関連資料にも当たってみましたが、創設から10年余りの頃のバカロレアは口述式で、1830年になって論述式が採用された歴史があります。しかし、その口述も当初の論述も細かな知識を問う形式でした。そこで1840年に当時の文相がバカロレア改革に乗り出しました。その通達には次のようなことが書かれています。

 「順序や説明もなしに細かく詳しい事実をつめこむ教育や、知性よりも記憶に頼るような教育からは距離を取らなければならない」――まるで今日の日本の大学入試制度が直面している課題と同じであることに「フランスも苦労してきたのだな」と思います。

 同時に、この通達が出された時期、日本はまだ江戸時代の天保年間であることで、改めて教育大国フランスの伝統に圧倒されました。ちなみに1840年というのは大塩平八郎の乱から3年後、時の将軍は11代家斉、老中は「天保の改革」でおなじみの水野忠邦。ペリーが黒船で浦賀に乗り込むまでまだ13年の時を要するという段階です。

 もちろんバカロレアが知識偏重型から知識運用型にスムーズに移行できたわけではありませんでした。19世紀中盤には高校の知識レベルを超えた出題もされる等、その時の文相が「記憶力の体操」と揶揄するくらい、知識偏重への寄り戻しがあったそうです。第2次大戦後になって、問題づくりの主導権を大学教員から高校教員に段階的に移していきながら、90年代後半に入り、平均的な知識の理解を問う現在の形式に改まっていきました。

● 詰め込みでは養われない「メタ認知」能力 ピケティの名前を言えるだけではダメ

 さてフランスでは、先述したようにOECD本部も訪れ、教育・スキル局のシュライヒャー局長らと新しい教育モデルについて政策対話を行ってきました。

 俎上に載ったのは、テクノロジーの進歩に伴う、社会で求められる人々の職業的スキルの変化と、それに教育がどう対応するかです。

 シュライヒャー局長との政策対話で出てきたキーワードの一つが「メタ認知」です。自分自身の認知活動を客観的にとらえ、評価し、コントロールする力のことを言いますが、メタ認知力の高い人は、複数の事象を目の当たりにしたとき、具象と抽象を自由自在に認識しながら、共通した要素を見抜けます。

 イノベーションを起こすような人材は、このメタ認知能力が高いと言えます。特に日本人が得意とする改良型のイノベーションではなく、全く新しいものを提案する非連続型のイノベーション、それこそアップルのジョブズのような革命的製品を生み出すのは、分かりやすい事例といえます。

 もちろん、皆がジョブズになれるわけではありませんが、ウェブが広がり、情報量が爆発的に増える現代社会にあっては、“ググれば”(グーグルで検索すれば)誰でも容易に知識が手に入ります。ですから時事問題で、ピケティの名前や著書の名前を言えるだけではダメで、ピケティの突きつけた格差論の意義とは何か、日本にそれが当てはまるのか、といった問題点を自分なりに整理し、「自分の言葉」で語れるようでなければ、本当に知識を使いこなしているとはいえないのです。

 そして、そうした知識の使い方は、工業化社会時代の“名残”といえる詰め込み型の教育では身に着きにくいのです。

● 2030年に必要な能力とは?  「科挙型教育」からの脱却を

 メタ認知能力があると、環境ががらりと変わったり、全く新しい分野に向き合ったりしたときの適応能力が違います。

 工業化社会から情報知価社会に大きくシフトしてきたこの10年、社会において新しい職業が続々と誕生してきました。今の20代、30代の人たちが就いている職業、たとえばビッグデータを分析するデータサイエンティストのような仕事は、彼らが子ども時代には影も形もありませんでした。2015年に生まれた子どもが大学を卒業する頃、彼らが就活で志望する職業もまた、私たちの目の前に存在しないものがあるはずです。

 OECDと討議した教育モデルは、2030年を想定しています。今の中学3年生が15年後に30歳になる頃には、ロボットが家事や介護、あるいは車の自動運転など社会のあらゆるところに進出しているのは間違いありません。人間がそれらの仕事を奪われる、もしくは解放されるようになれば、新たに出現した仕事を自分の力で見つけ、適応していかなければなりません。従来の「科挙型」教育にどっぷりつかり、固定観念を捨てきれなければ変化に対応できなくなるのです。

 時代の転換点に応じて、教育スタイルが変わった先例を挙げましょう。大河ドラマを引き合いに、吉田松陰先生の話を何度も持ち出して恐縮ですが、幕末の長州藩では藩校の明倫館はまさに四書五経の「科挙型教育」。一方、松下村塾では、若者たちが書を読み、松陰先生と議論を重ねた「熟議型」教育を受けていたからこそ、彼らは明治維新という「国家のイノベーション」を成し遂げられたのです。

 今はまだ「メタ認知」の話をしても、ピンと来ない親御さんや学校の先生方も多いかもしれません。しかし21世紀型の教育システムを作り上げていく今後十数年、次第に形となって表れてくると思ってください。

 振りかえれば、我が国の教育行政は、過去にも小学校に総合学習の導入をする等、知識を総合的に運用できるような試みを局所的に行ってきました。しかし、結局は大学受験のシステムが変わらないので、生徒も学校も「科挙型」の勉強に立ち戻らざるを得ませんでした。

 だからこそ、まずは大学入試の制度を変えることに、私も文科省も心血を注いでいるのです。そういう中での今回のフランス出張では、バカロレアの成り立ちや実際の運用について知り、国民教育・高等教育・研究省の担当者と意見交換できたことは、非常に参考になりました。今後我が国で取り入れられる要素、導入が難しい要素はどれか分析・整理し、新しい制度の提案に生かしたいと思います。

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