ところで、ベルクソン自身はvocationという語をどのように使っているのか。例えば、ギトンはこう述べている。
《ベルクソンは、彼の最後の著作〔『二源泉』〕で、通常の責務すなわち社会的義務を越えたところには、より高次の責務があると述べているが、それはつまるところvocationの責務に他ならない。ただし、ベルクソンはこのvocationという語を用いてはいない。彼はもっとシンプルな「呼びかけ」(appel)という語を好んだのだが、それらはまったく同じことである。》(p. 15)
ギトンは間違ってはいないが、厳密ではない。間違っていないというのは、『二源泉』第一章の道徳的責務をめぐる議論においてたしかにvocationという語は用いられていないからである。厳密でないというのは、『二源泉』第三章の、必ずしもappelと無関係とはいえない文脈において、vocationという語はただ一度だけ用いられているからだ(DS, 228)。
《平凡な教師でも、天才的な人たちの創造した科学を機械的に教えることによって、彼の生徒たちの誰かのうちに、彼自身は持たなかったような天分(vocation)を覚醒させ、知らず識らずのうちに、その生徒を彼の伝達する使命(message)のうちに不可見的に現存しているそれらの偉人たちの競争者に変えるだろう。》(1953年[1977年改訳]・平山高次訳、262‐263頁)
《平凡な教師でも、天才的な人間がつくり出した科学を機械的に教えることによって、その生徒の誰かのうちに、彼自身がもたなかった天分(vocation)を目覚めさせ、知らず知らずにその生徒を偉大な天才たちの――目には見えないが、彼の伝える使命(message)のうちに現存している天才たちの――競争相手にするだろう。》(1965年・中村雄二郎訳、259頁)
《凡庸な教師が、天才の創り出した学問を機械的に教えていても、この教師自身には与えられていない使命(vocation)へ呼び覚まされる者が、その生徒たちのうちから出てくることがある。教師は、この生徒を無自覚のうちに、そうした偉人の好敵手に変えつつあるのであって、そうした偉人は、教師が運び手でしかないこの使命(message)のうちへ――目に見えぬ形で――現前しているわけである。》(1969年・森口美都男訳、434頁)
《凡庸な教師も、天才的な人間の創造した学問をただ機械的に教えることで、彼のある生徒のうちに、彼が自分自身では持たなかった召命(vocation)を呼び起こし、無意識的にこの生徒を偉人たちに匹敵する者へと変容させるだろう。偉人たちは、この教師が伝達した音信(message)のなかに不可視のまま現前しているのである。》(2015年・合田・小野訳、296頁)
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