2023年1月25日
愛知医科大学の兼本浩祐先生からご高著『普通という異常 健常発達という病』(講談社現代新書、2023年1月20日)をご恵投いただきました。
《「人間とは一つの症状なのだ」という世紀末に流行ったプロパガンダをもう一度声高に喧伝しようという意図はないのですが、健常発達的特性が極端になれば、それはそれでやはり耐え難くしんどいことはあるのであって、健常発達という病を考えることは、そのまま人間とは何かを考えることにつながるのではないかという方向性には、今も何がしかの有効性があるのではないかとは考えています。》という先生の方向性には共感するところが大きいです。
同じ方向性をもつ「人間であることは疲れること」に関するベルクソンの指摘(240頁)には精神科臨床と響き合うものがあると私も感じており、以前兼本先生からもメールでうれしいお言葉をいただいていたのですが、私のリズムの議論を平井さんの「生の未完了的感覚クォリア」の議論と接続して論じておられる(88‐89頁)のを見て、はっとさせられました。まだ明確に論じられるわけではありませんが、今後ぜひとも深めていきたい論点です。大切に読ませていただきます。
《「人間とは一つの症状なのだ」という世紀末に流行ったプロパガンダをもう一度声高に喧伝しようという意図はないのですが、健常発達的特性が極端になれば、それはそれでやはり耐え難くしんどいことはあるのであって、健常発達という病を考えることは、そのまま人間とは何かを考えることにつながるのではないかという方向性には、今も何がしかの有効性があるのではないかとは考えています。》という先生の方向性には共感するところが大きいです。
同じ方向性をもつ「人間であることは疲れること」に関するベルクソンの指摘(240頁)には精神科臨床と響き合うものがあると私も感じており、以前兼本先生からもメールでうれしいお言葉をいただいていたのですが、私のリズムの議論を平井さんの「生の未完了的感覚クォリア」の議論と接続して論じておられる(88‐89頁)のを見て、はっとさせられました。まだ明確に論じられるわけではありませんが、今後ぜひとも深めていきたい論点です。大切に読ませていただきます。
2023年2月5日
専修大学の宮﨑裕助さんより、ご高訳ジャック・デリダ『メモワールーーポール・ド・マンのために』(水声社、2023年1月10日)をご恵投いただきました。私がベルクソンを読むに際してデリダから学んだことは数多いのですが、とりわけ「読解と分析と解釈の省略(エコノミー)」(305頁)「これで最後だ、ケリがついた」と短絡的に考える「最悪の健忘症」(337頁)に抗し、粘り強く読解を展開することでした。
この点は特に「歴史家デリダの眼」を通してミクロとマクロの両次元で実践された「読むことのレッスン」である第Ⅱ部で再確認されますが、理論的には何といっても第Ⅰ部が興味を惹きます。ハイデガー的言語論・記憶論(言語の自己呈示作用=起源へのノスタルジー)のド・マンによる書き換え(自己撤回作用=起源との乖離)という対比は、ベルクソンとハイデガーの対決について考えている私にとっては示唆するところの大きいものです。
2023年2月5日
鹿児島大学の太田純貴さんより、ご高訳ユッシ・パリッカ『メディア地質学——ごみ・鉱物・テクノロジーから人新世のメディア環境を考える』(フィルムアート社、2023年2月5日)をご恵投いただきました。「自然とテクノロジーの連続体をいかに考えるべきか」をめぐるメディアエコロジー三部作を締めくくるデジタル唯物論的な作品として、特に「非有機的なもの」に焦点を合わせ(308頁)、「傍若無人新世」(素晴らしい訳語ですね)、つまり人類が電子廃棄物やそれが引き起こす影響(ダーティで危険な物質性)によってゆるやかな時間スケール(地質学的な持続時間)で地球を改変しつつ、それによって人類自身を改変し条件づけている時代を描き出す(315頁)。
ただし、太田さん自身は、パリッカの「生真面目さ」に「若干の息苦しさ」を感じる読者には、アクティヴィスト的な問題意識はいったん傍らに置き、むしろ「ときに蛮勇に見えても、さまざまな領域を横断して議論をすることに対して、強く背中を押してくれる」側面に目を向け、「新たな論点や視角を構築するための推進剤」として利用することを勧めていらっしゃいますね。ベルクソンの四大著作のさまざまな議論との関連を喚起させる刺激的な議論で、楽しみに読ませていただきます。
2023年3月1日
檜垣立哉先生より、ご高著『生命と身体 フランス哲学論考』(勁草書房、2023年1月26日)をご恵投いただきました。
「フランス現代思想は、実は現時点において、ようやくその本領を発揮する「とば口」にたったのではないか」(iii頁)、「すべてが「これからだ」、という段階である」(iv頁)、「書かれたものは、見知らぬ者、場合によってこの世で生を共にしない他者に、「これからだ」という声を引き継ぐことでもある」(同)
これは実は三十年来、檜垣先生の「哲学的眼差し」の根幹にあるものかもしれませんね。このひと月の間に、第Ⅱ部・第Ⅲ部を中心としてすでに複数の論考を再読させていただいております。地力としか言いようがありませんが、このレベルのものを毎月のように書き続けていらっしゃるのは、本当に尊敬と畏怖を覚えております。
2023年3月1日
東京大学の王寺賢太さんより、ご高著『消え去る立法者―― フランス啓蒙における政治と歴史』(名古屋大学出版会、2023年2月28日)をご恵投いただきました。
昨年拙著をお送りする際に話されていた待望の単著刊行おめでとう ございます。二段組でこの分厚さは凄いですね! ディドロが中心と想像しておりましたので、 ルソーが圧倒的な部分を占めていてびっくりしました。この夏から一年間フランスに研究滞在しますので、じっくり読ませていただきます。
2023年3月1日
専修大学の佐藤岳詩さんより、勢力尚雅・古田徹也編『英米哲学の挑戦―文学と懐疑―』(放送大学教育振興会、2023年3月20日)をご恵投いただきました。ご担当された第9章から第11章を早速拝読しました。第9章では道徳判断に関してヘアとウィンチの間で「単純にどちらかが間違っていると断ずるのを避ける一つの途」(153頁)を探し、第10章ではその道徳判断の(主観性と)客観性に関してフットとマードックの間で「両社は相補的なものであると考えることもできる」(173頁)とし、第11章では判断の確実性(真理)を目指す意義に関してローティとウィリアムズの間で「両者は完全に対立するものというわけではない」(187頁)と見て、読者に「考えてみてほしい」と問いかける。佐藤節ですね。
特に興味深かったのは、「道徳を時間的に幅を持った仕方で捉える可能性」「時間の流れの中で自己を捉える」といった視点です。ベルクソンの道徳哲学(著作で言えば『道徳と宗教の二源泉』)とどのような関係を持ちうるのか、今後考えていきたいと思います。
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