Saturday, April 29, 2023

いただきもの(2023年4月①)

2023年4月1日

武蔵大学の土屋武久先生より、ご高訳ニール・アーチャー『ロードムービーの想像力:旅と映画、魂の再生』(晃洋書房、2022年12月)をご恵投いただきました。

まったく縁もゆかりもない私にどうしていただけたのか分かりませんが、ともかく不思議なご縁を感じました。

実は数日前までひと月近くパリに研究滞在していたのですが、往路の飛行機で遅ればせながらようやく『ドライブ・マイ・カー』を観たこと。到着したパリで、仕事を終えた後、夜に映画を観る習慣を徐々に取り戻し、いろいろ観た中にヴェンダースの『パリ、テキサス』があったこと

また、先生の仕事を検索するうちに、『映画で実践!アカデミック・ライティング』(小鳥遊書房、2019年)の訳者でもあるということを発見して驚きました。映画で卒論を書きたいと言う学生によく薦めている一冊だったからです。

そして最後に、私自身はフランス哲学研究を主にしているのですがいずれ手掛けたいと願っていたのが「旅の哲学」だったのでした。

まだパラパラとめくったばかりですが、本の造りもとても手に取りやすく、旅の供にぴったりですね。これからじっくり拝読させていただきます。

2023年4月5日
中京大学の山崎敦さんより、待望のご高著 Bouvard et Pécuchet, roman philosophique. Une archéologie comique des idées au XIXe siècle, Presses universitaires de Vincennes, coll. "Manuscrits Modernes", 2022.をご恵投いただきました。

苦節二十年とのこと、私の博論も2007年提出だったので、ご苦労はよく分かります。まずはお疲れさまでしたと心から申し上げたいです。

まだ序論に目を通したにすぎませんが、やはり「哲学的小説」の「哲学」が興味深いです。その「哲学的射程」はもちろん何らかの哲学的教説やテーゼを標榜することから来るのではない。そうではなく、「知的言説とその記憶が、奇妙に歪曲されながらも、物語の展開に沿って、登場人物の語りや身振りのうちに、細かなディテールのうちに巧みに統合されている」ということからこの哲学的小説の「力」は来ている。

そこでは概念が小説の登場人物と同じ役割を果たしている。人物と同じように動き、ぶつかり、戦い、破壊し合う。その概念的人物たちが演じるエピステモロジックなシナリオ、
ドラマ化、その演出がcomiqueなのであって、登場人物たちがcomiquesなのではない。フローベールにtournant comiqueがあったとしてーーそもそもcomiqueはどう訳すのが正解なのでしょうーーその場合のcomiqueはcomique singulierであって、そこで問題となるのは、idées comiquesではなくcomique d'idéesである、というのはそういうことですね。

ドゥルーズ=ガタリのそれとはかなり異なる概念的人物たちはむしろ、至極真面目な、時に滑稽なほど真面目で、皮相なほど悲壮だというのが、『ブヴァールとペキュシェ』の中で作動している観念の喜劇のメカニズムだ、と。パスカルの「哲学を嗤う反哲学的哲学」、自らをソクラテスと素朴な百姓の間の「中間者」の位置に置くモンテーニュを彷彿とさせるポジショニングですが、そこにフローベール独自のcomiqueが差し挟まれる。といった読みが正しいのかどうか、これから楽しみに読ませていただきます。

2023年4月8日
北海道教育大学の古川雄嗣さんより『近現代日本思想史 「知」の巨人100人の200冊』(平凡社新書、2023年2月15日)をご恵投いただきました。

ひとまず古川さんの手になる五篇ーー「阿部次郎」「鈴木大拙」「西田幾多郎」「柳宗悦」「九鬼周造」だけ拝読しました。面白いもので、そういう読み方をすると、やはり書き手の個性が浮かび上がってくる気がします。

1)安易な日本主義への警戒感(私の言葉で言えば、「反時代的」姿勢)と単なるコスモポリタニズムでもグローバリズムでもない「世界」への開かれ
 阿部「多くの知識人が日本回帰になだれ込んでいったこの時代にあって、阿部があくまでも人格主義という理想を手放さなかったことの意味」(86頁)
 鈴木「禅とキリスト教、東洋と西洋といった分別を越えた無分別こそが、まさに禅の第一義なのである。大拙にとって禅とは、その深みにおいて人が真に「世界」と出会う道行だったのである」(107頁)。
 西田「行為によって世界を知り歴史を作るのであるとする行為的直観」(113頁)
 柳「日本の同化主義政策を批判」(126頁)。「民藝とは「民衆的工藝」であると同時に「民族的工藝」であり、柳にとってそれは単なる美の問題ではなく、人間と国家と世界のあり方の根本に関わる問題であった」(127頁)。「柳にとって「日本」とは、それぞれに固有な自然風土と歴史をもつ「地方」の総合である。(…)確かに我々は日本を誇るべきであるが、それは「具体的な形のあるものを通して」であり、それによって我々は「世界は一つに結ばれているものだということを、かえって固有のものから学ぶ」のだと、柳は言うのである」(128頁)。
 九鬼「敢然と「外国文化に対して或る度の度量を示すことを怠ったならば日本的性格は単なる固陋の犠牲となって退嬰と委縮との運命を見るであろう」と言い放ったところに、彼の「いき(意気)」を見ることができる」(163頁)。

2)手触りのある、経験に根差した哲学
 鈴木「いわば霊性に貫かれた感性的世界を生きる」ことで「より深い意味が立ち現れる」(106頁)。
 西田「哲学の動機は深い人生の悲哀でなければならない」(111頁)。
 九鬼「苦界に生きるすべての人々の生を、美的・倫理的に肯定しようとした」「胸に暗黒なものを有って、暗黒のために悩まなければ哲学らしい哲学は生まれてこない」(162頁)。

とても共感するフレーズがたくさんあって、つい引用しすぎてしまいました(笑)。

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