きちんとお答えしなくてはと思いつつ、忙しいとそういう義務感が負担になって余計に筆が重くなるという悪循環に陥ってしまいました。これではせっかく重い腰を上げて、ひとまずコメント欄を限定的に開放した意味もないわけですが…。「投瓶書簡」のような感じで気長にお願いします。お便りには目を通しておりますので。
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制度的な努力は静かに進行している。ちょっとしたトラブルもある。年かさの人であれ、誰に対してであれ、もっとゆっくり時間をかけて、十分に意を尽くして説明していかねばならないと繰り返し自分に言い聞かせる。
研究面での努力は、これに比べればもっとフィジカルだ。やらねばならないことはすべて技術論的なレベルで解決できることである。マルクスの言うように、人間は解決できる問題しか(本当の意味では)提起しないのである。
私のような人間でも悩み相談などを受けることがあるが、そういうときいつも困ってしまう。たいていの場合、彼らの中で答えはすでに出ており、私にはアドヴァイスの仕様がないように思われるからである。「研究が進まない」「どうすれば良い論文が書けるんでしょう」云々。こういう質問はたいていの場合、偽の問題であり、問題のすり替えである。偽の問題に悩まされ、疲労困憊し、それを振り払うのに時間と労力を費やす(その実、それは彼らが発明したものなのだ)ことが彼らの真の目的なのであり、これをフロイトは「疾病利得」と呼んでいた。彼らは問題を精神的なものにし、深刻にとる。pathétiser, psychologiserしすぎるのである。
『二源泉』の人格性概念を、ベルクソンが用いている声という形象を通して分析してみようという趣旨の論文をひとまず書き上げた。ハイデガーによるカントの人格性概念分析と比較したり――和辻は1931年の段階でこの分析を取り上げて論文に組み込んでいる。やはりあの当時の即応力には並々ならぬものがある――、パスカルのさまざまな習慣論を持ち出したりと、いつもどおり好き放題である。今、この論文の細部を詰める作業を始めている。
というわけで、いつも斜め読みの『パンセ』とともに、斯界の泰斗・塩川徹也氏の『パスカル『パンセ』を読む』、岩波セミナーブックス80、2001年を読んでいる。開始数頁でいきなりつまづく。「着手」って、チェスのmoveのこと(ほぼ同義)だったのね。
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