私は友人のJAZZ/朗読ライヴを告知しただけなのですが、ご丁寧なコメントをいただき、誠にありがとうございます。
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考えてみれば「代読」とは興味深い行為だ。誰かの書いたものを代わりに読むという行為。むろんそれがあまり大きな意味をもたない場合もあるだろう。哲学の学会で発表を代読されて感動する、などということはまずないように思う。
だが、『冬の兵士』朗読会では感動した。内容だろうか。それもあるだろう。イラク戦争のドキュメンタリー本の朗読でも感動するかもしれない。しかし、その場合は、読み手の能力に大きく依存するだろう。今回はしかし、朗読のプロでない市井の人々が朗読し、それが確実に何かを伝え得たのだから、〈声の複数性〉ということに意味があったように思う。
それにまず、ドキュメンタリー本を誰か一人が読み聴かせるという朗読会ならば、私は行こうと思わなかっただろう。なぜだろうか。たぶん独りの人格が大きすぎ、強すぎる(trop imposant)のだ、今の私の衰弱しきった政治感覚にとっては。
そのことに真正面に向かい合いすぎると逃げたくなることがある。真正面すぎる〈出会い〉には疲れてしまう。斜めから、すれ違いざまの、通りすがりの出会いが、私だけでなく、今の日本人の政治感覚にとって重要ではないかと思ったりもする。フランス語で「声」を意味するvoixは、投票の際の「票」をも意味する。かつて(2002年5月のいわゆるルペンショックの時)そのことをめぐって短い雑文を書いたことがあった。
行き交い、響き合い、消えてゆく声の政治。だからこそ、イラク戦争の帰還兵たちの〈証言〉を、彼らのさまざまな〈声〉を、年齢・性別の近い人々のさまざまな〈声〉が代わりに読み上げるということになんとなく漠然と興味をもったのではなかったか。
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