Saturday, December 26, 2009

哲学の旅――『哲学への権利』を観る

代読はすでに幾分か、自分が書くことになるであろうものの朗読なのかもしれない。

幾つかのすでに輪郭のはっきりした人格が出会うのではない。出会いが人格をつくりあげ、呼び声が主体性を貫いて構成する。反人間主義(anti-humanisme)ではなく、非人間主義(an-/in-humanisme)とでもいえばいいのだろうか。それも真正面からの、ステレオタイプ化した意味での「実存主義的」な出会いではない(サルトル本人はむしろ違っていたのではないかという可能性は強い)。現代においては、斜めからの、すれ違いざまの、通りすがりの、振り向きざまの出会いこそが大切なのではないか。

空港や大学のような、人が絶えず行き交う、しかし奇妙にがらんとした場所、雑踏であると同時に静寂を湛えた空間に私がひどく惹かれるのは、それが現代という時代を、しかしながらそのアクチュアリティにおいてではなく、その差延的な反時代性(intempestivité)、時代錯綜性(anachronie)において引き立たせる空間であるからに違いない。

人間関係全般が希薄になったと嘆いてばかりでは仕方あるまい。そのような現代における人と人との真の「出会い」が可能になる制度をこそ夢想しつつ、既存の制度を脱構築するのでなければならないだろう。私が狭義の西洋哲学研究の傍らで展開したいと思っている三つの問い――哲学と大学の関係、結婚の脱構築、旅行の哲学――は、様々なレベルでそこに斬り込もうとするものである。



西山雄二さんのドキュメンタリーフィルム『哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡』(Le droit à la philosophie : les traces du Collège international de Philosophie)が今、全国を巡っている――彼とは、哲学と大学、旅など多くのテーマが共通するのだが、それは措こう。私もようやくそのフィルムを見ることができたので、ここにその印象を、まだ観ていない人のための配慮を施しつつ、ごく簡単に記しておくことにする。

1)表現手法の旅
まず、独りの思想・文学研究者が制度についてのドキュメンタリー映画を撮ってしまったという事実に単純に驚いてしまう。イマージュや映像を文学研究の対象とすることはもはや研究の一ジャンルとして確立したが、自分がイマージュや映像を主たる表現媒体として研究成果を発表しうると、実例をもっていったい誰が示しえただろうか。たぶん前例はほとんどない。

国際哲学コレージュ(CIPh)というフランスの一高等教育制度についての考察を思想研究者が映像化することにどんな意味があるのか。Bruno Clémentはインタヴューの中で、デリダがCIPhを創設した精神はCIPhに「意味sens」ではなく、「奥行き、立体感relief」を与えてきたと述べていたが、インタヴューの内容だけでなく、インタヴューされる者たちの顔、身振り、手――握手を交わす手と手――の映像はまさに、CIPhの活動の「意味」ではなく、「奥行き」を観る者に与える。

思想研究はどこかの時点で必ずエクリチュールを通過するとしても、エクリチュールが最終地点であると誰が決めたのか。表現手法がイマージュや、さらには行動であっていけない決まりはどこにもない――フランソワ・シャトレが自らを「哲学のプロデューサー」と規定し、盟友ドゥルーズがその「プロデューサーの哲学」を興味深い形で引き出してみせたことを思いだしておこう(2009年1月26日の「哲学のプロデューサー、プロデューサーの哲学」27日「プロデューサー目線」、また『思想』ベルクソン生誕150年特集(2009年12月号)の132頁を参照のこと)。

映像(イマージュ)はこうして「奥行き」とともに、ごく限られた専門家だけでなく、広く一般の聴衆を哲学と制度の問題の考察へと導くことに役立つ。嘘だと思うなら、一度この映像を見てみればよい。そして自分の書きものが達しうる読者層と較べてみるとよい。『哲学への権利』は研究手法において、思想・文学研究の表現方法において実験的な旅を試みている。いや、「実験的な旅」とは冗語的にすぎよう。実験(experiment)の語源が「貫く」を意味するギリシャ語peíreinに由来する以上、その名に値するほどの「旅」は、常にすでに幾分か「実験」であるのだから。

2)表現内容・表現主体の旅
次に、『哲学への権利』が、決して単なる「お説拝聴」のドキュメンタリーに終わっていないことを強調しておこう。一日本人思想研究者が対等にCIPhの中心的なメンバーたちに問いかけ、この特異な制度の長所だけでなく、「問題点Les problèmes」をも引き出しえている。これはとりわけ、従来の日本の、とりわけ現代思想系の研究者たちに見られなかった姿勢である(「CIPhとデリダ」のセクションは、あるいはさらに突っ込んでもよかったかもしれない)。

この作品はCIPhという制度が描いてきた「軌跡traces」、その「奥行き」を、限られた「手段moyens」(限られた時間・資金、限られたテクニック・言語能力など)で辿り直すことによって、日本の思想・文学研究全体が辿ってきた軌跡や奥行きをも逆照射する一種の「旅」である。私たち思想研究者はこの映像を、自分自身の辿ってきた軌跡や奥行きとひき比べることなしに、決して他人事としては見られないだろう。

3)上映運動という旅
最後に強調しておくべきは、『哲学への権利』が単なる一映像作品の名ではなく、西山雄二という恐るべき行動力を発揮し続ける個人がその映像作品をもって、日本全国のみならず、世界各国を巡回する運動そのものの名であるということだ。前出のBruno ClémentがCIPhはデリダの諸著作と同じように彼のoeuvre(作品)の一つである、と述べていたが、全世界に散らばる友人や知人のネットワークを駆使して織り上げられた上映運動としての『哲学への権利』もまた、西山雄二のoeuvreだと言える。

だが、さらに一歩を進めてこう言うことに西山はきっと反対しないはずだ。そうではない、人々を貫き、人々をつなぐ『哲学への権利』という映像作品および作品上映運動――握手する手と手――は、おそらくは西山雄二という個人から出発したのではないし、CIPhという運動自体すら、おそらくはデリダから出発したのではない。デリダをも貫いて流れ来たった力、思考の力の旅こそがoeuvreの真の「作者auteur」なのであり、これこそ「哲学」にほかならないのだ、と。

インタヴューの中で、François Noudelmannは、デリダに敵対的な思想的ポジションをとる人たちをも積極的にCIPhに迎え入れることをデリダが繰り返し強く勧めていたと語り、それをデリダがcontre-signatureという概念で表現していたと述べていた。公式の文書により多くの正当性を与えるためになされる「副署」であると同時に、文字どおりには「反対の意を表しつつサインする」ことをも意味しうるこの語こそ、CIPhを表現し、またCIPhをめぐる映像作品である『哲学への権利』、そしてその上映運動を表現するのに最も適した語であるかもしれない。

デリダに何の関心もなく、むしろ彼の諸著作を真剣に読んだこともなく毛嫌いしている人々、CIPhと聞いただけでデリダ派の牙城と考えてしまう人々、哲学と制度の関係についてあまり考えたことのない「職業的」哲学者たちこそ、各地の大学で行なわれている上映会をぶらりと観に行かれるべきであろう。その身振りこそ、今まさに動きつつある現代世界の思想に必要なcontre-signatureの一つであろう。

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