Monday, September 28, 2009

ホフクゼンシン

研究で三つ心に重くのしかかる仕事があり、それぞれ心理的に滅入って進められないでいる。だが、心はどうあれ、前に進まねばならない。昨日徹夜し、今日も午前二時までかかって、ようやく一つ片付けつつある。

これから明日の授業の準備。残された時間は5時間。二日続きで徹夜することにすれば、の話だが…。

Saturday, September 26, 2009

すばらしい日々

明日は土曜日。たぶんどこの私立大学も似たようなものではないかと想像するのだが、月曜は休みが多すぎるので、その振替授業がある。それが明日である。ちなみに、補講なしの休講は許されない。

今は午前二時、ようやく明日の授業準備を終えた。ドゥルーズのヒューム論(1953)とニーチェ論(1962)をグールドのゴルトベルク(1955)と比較するという試みで、自分的にはかなり満足いく出来栄えになった。

独り疲れて自分の道を行く。

矢野顕子は「すばらしい日々」のカヴァーを何バージョンも残しているが、Beautiful Songs Liveの録音が一番好きだ。「君は僕を忘れるから、僕は君に会いに行ける…」

Monday, September 14, 2009

疲労の披露

日曜はベルクソン哲学研究会@法政大学に出席。身体の調子が悪くてうまく集中できなかったせいか、前の二つの発表は、レベルが高そうだという印象を受けるものの、私の中できちんとした像を結ばなかった。一つ目は空間概念を記憶力と想像力の観点からみるというもの。二つ目は縮約の概念をドゥルーズを越える形でベルクソン哲学の中心に(とりわけMMとECのつなぎ目に)置けないかというもの。どちらの発表も、「知覚」の位置づけはどうなるのかなと漠然と思った。

最後の発表には、ほとんど感動した。山田秀敏さんの「ベルクソンと教養」である。「教養」概念を「エリート主義」から解き放ち、「キャリア教育」にも役立つよう、「ユニクロ的」(山田さん談)なものにしたい、そのためにベルクソンが一肌脱げるのではないか、というもの。私は大筋には完全に同意できる。というか、私が去年書いた仏語論文と目的においてかなり近い。

ただ、気にかかるのは、「教養は無償的であって、「利」と鋭く対立することになる」(4頁)という点である。これは同意できない(そして、この点につながる、教養の技術性(マニュアル化)、教養と社会といった問題系において、種々の反論が生まれるが、それは措こう)。

私の考えでは、「教養」は、ベルクソンで言えば「直観」であり、「利」を求める社会の要請に応えることもあるが、それを目的とはしない。いずれにしても、「利」の要請のありかたそのものをひそかに変えてしまうものである。

教養はモル的なレベルでイデオロギー的に権力と対立するのではない。分子的なレベルで、エリートにおいても、大衆においても、至るところで、さまざまなレベルで作動するものではないか(だから、ポピュリズムの蔓延する現状においては、エリート批判にもあまり賛同できない)。

ベルクソンは知性を「否定」したのではなく、「批判」した、つまり本能との区別を精査した。その結果、彼は知性から本能に向かうのではなく、知性を本能のほうに向き変えた。本能のほうを向いた知性、それが直観であり、ベルクソンが教育論において強調する「良識」や「礼儀正しさ」である。

マニュアル教育の功利性をベルクソン的に「批判」することは決して、即、功利性概念一般の否定ではない。それはむしろ功利性概念の鋳直しへと向かうだろう。功利性概念を鋳直す力、それが効力である。

感動はつかのま疲れを忘れさせ、人を奮い立たせる。あてこすりや厭味は人をよりいっそう疲れさせ、意気消沈させる。

Sunday, September 13, 2009

感謝

土曜日は日仏哲学会@雨の東京。いろいろな方に「大変みたいだね、がんばってね」と声をかけられる。哲学研究や生きることそのものにおいて「遠くへ」行くのは好きだが、最近、哲学研究、つまり生きること自体から「遠ざかっている」なあ、と憂鬱になっていた。諸先輩方、友人たちに励まされるというのは本当に大きい。ありがとうございました。

発表についての所感。行なった質問をざっと書きつけておこう。

午前一つ目:ベルクソン『試論』における空間と延長について。まず時間内に発表を終わらせるということが大前提。別に一分や二分、と思うかもしれないが、一般発表というのは若手研究者の鍛錬の場なので、一分超えてもいけない。少なくとも私はそう思ってやってきた。内容の批評はそのあとの問題。

午前二つ目:ベルクソンにおける「習慣」概念は各著作から表面的に拾い上げてくるとネガティブなものが多いが、生産的・創造的といえる「新しい習慣をつける習慣」がある、というもの。しかし、真に新しい習慣をつけさせるのは、「動的図式」をはらむ「(知的)努力」である。「習慣」はそれに引きずられつつ、それを具現化する「物質」のような側面に着目して研究してみると面白いのではないか。

午前三つ目:ベルクソンにおける「individu個体・個人」概念は、『進化』と『二源泉』の断絶を画するものであって、人間の創造的な側面を表す、というもの。しかし、『進化』の「個体」と『二源泉』の「特権的個人」を同一レベルで論じることができるのか。『二源泉』は「特権的個人」というより、特権的個人を超え出ていこうとする力とその横溢としてのpersonnalité(人格性)を称揚しているのであって、これはindividualité(個体性)と分けて考えるべきではないか。『二源泉』における「個人」はむしろ閉じた社会に見られる「社会―個人」のサーキットの中に見いだされる。「人間種という停滞」こそ、種とは停滞であると言いながら、人間種の勝利をほぼ手放しで謳歌していた『進化』において、きちんと見いだされていなかった次元といえる。

午後シンポジウム:現象学以後のイメージ問題をめぐって、加國さんがメルロ=ポンティ、宇野さんがドゥルーズ、澤田さんがナンシーを論じた。

17世紀以降プラトンのミメーシス批判のミメーシスが続いたが、20世紀に入って、イメージを「本質/仮象」「オリジナル/コピー」の二分法で考えるのをやめ、イメージそのものの持つ力を見いだそうという方向が表れてきた。これはドゥルーズの言葉を借りれば「偽の力」(puissance du faux)というべきもので、今回の三つの発表はいずれも、この力とそれ以前的な問題構成との間の切断線を強調するものであったと言える。

ドゥルーズは最も現代的で、最も映画的な映画の本質として、「偽の運動」ともいうべき「つなぎ間違い」や「非合理的切断」(coupure irrationnelle)によってつくりあげられた「偽の力」を考えており、これは非有機的生気論(vitalisme non-organique)に支えられている。しかし、主体の問題を棚上げにしながら、本当に純粋な「非有機的」生気論を貫徹でき、非人称的で前主体的な超越論的領野を維持できるのだろうか。

加國さんの発表は、「自然的知覚」の優位を説いてきたとみなされるメルロが、実は映画論において技術性(人工的知覚)、とりわけ「モンタージュ」を積極的に取り入れており、ここに現象学的映画論の可能性があるのではないか、というもの。「偽の力」が「モンタージュ」に見いだされている。しかし、メルロの映画論には、「映画の現象学」を可能にするものというよりは、「現象学を映画の用語で語ったもの」という意味で、「現象学の映画」という印象を受ける。現象学は「偽の力」を受け止めることができるのだろうか。真理との関係を完全に断つことができるのだろうか(この点で、ベルクソンが真と偽のはざまにある「デジャヴ」を取り上げたのに対し、メルロが主体的知覚の「真」を支える「幻影肢」を取り上げたのは興味深いことである)。

ナンシーは「偽の力」を、イメージの裸形、イメージそのものの露呈というほとんど唯物論的な語り口で、イメージの眼差し、何も眼差してはいない眼差しが、にもかかわらず、主体を成立させる、といわんばかりである。ここで登場してくる主体は、近代的な主体とどう違うのだろうか。

Friday, September 11, 2009

ルーキーイヤー

ちゃんとしたブレイクを入れなければと思いつつも、じりじりと仕事を進めている。塵のように降り積もっていく、大学の仕事を一つ一つ片付けていく。会議、書類、研修会、書類、訪れる学生の話を聞く、書類。その合間に、シンポ準備、授業準備を進め、論文の校正をし…と要するに、ごく標準的な大学教員の生活を送っている。

自分が特別に忙しいと思っているわけではまったくないし、他の人と忙しさ競争をするつもりもない。そういうことではないのだ。ただ、大学のペースに乗って行けない自分が歯がゆいだけである。

前にも書いたが、高卒ルーキーのような気持だ。高校球児だった頃は、プロでも通用するかもと思っていたが、いざプロの世界に入ってみると、技術以前に、基礎体力が決定的に足りないと判明した、というような。

土日は学会、研究会で東京に行く。息抜きになるだろうか、いっそう消耗するだろうか。

月曜から後期が始まる。国際シンポジウムあり、ワークショップあり、講演会ありの十月には一週間休講する。代償は大きい。長丁場をうまくやりおおせるだろうか。

Thursday, September 10, 2009

夢の続き、仕事の続き、ストレスの続き

「シンポの準備」と一言で書いた。二三人の日本人研究者を呼ぶのに大した手間は要りはしない。外国人研究者十人(+日本人十人)を招聘する国際シンポの準備をほんの二三人でやることがどれくらい大変か。傍でいろいろ言うのはとても簡単なことだ。いろいろ厭味を言われても、準備が大変でも、理念的な賭け金があると思えばこそ、やり通すほかはない。夢の続き。

仕事が忙しいのがストレスなのではなく、それらをてきぱき片づけていけないのがストレスなのである。なぜてきぱき行かないのか。相手のある仕事だからである。さまざまな関係の相手に、微妙なニュアンスを要するフランス語の、英語の、ときには超ブロークンなイタリア語で、メールを書き続ける。とても疲れるし、時間も食う。

しかしそれで終わりではない。それぞれの返事を待たねばならない(ここに「持続」がある!)。遅れてきた一通の返事の内容によって(あるいは返事の遅れそのものによって)、状況が一変することもしばしばである。すると、いろいろなことをまたやり直さざるを得なくなる…。

シンポの準備に専念できるならまだいい。ここに昨日書いた一つ一つの作業がのしかかってくる。書いていないたくさんのことものしかかってくる。

そういうわけで、夢の続きを見ているような感覚を半分持ちながら、深夜(早朝?)に起き出して仕事の続きをしている。

一つ一つのこまごまとしたことがストレス要因なのではなく(私はそれほど器の小さな人間ではないつもりである)、それらが絡み合って身動きが取れなくなるのがストレスになる。多分ストレスの原因など、あってないようなものなのだ。

もっと忙しい方は山ほどいらっしゃるというのに、情けない限りだが…。

Wednesday, September 09, 2009

ストレスフル

大学関係
・授業準備ぼちぼち(哲学史の続き、ドゥルーズ入門、ベルクソン入門など)。事務関係ぼちぼち。
・来年、プロジェクト・ゼミという三年生の領域横断的なゼミで結婚論をやる。どうせなので、日本平安文学の専門家、古代ギリシャ社会史の専門家、現代日本の家族社会学の専門家、近代フランス文学の専門家に助けていただきながら、わいわい楽しくやろうと思っている。今はその下準備。

研究関係
・シンポ&edツアーの準備、大詰め。メールにかなりの時間をとられる。
・大学紀要校正大詰め。
・大学紀要次号の締め切りがすでに近付きつつある…。
・雑誌論文2本、大詰め。

・友人の科研に加勢、大至急やらないといけないのだが…。
・仏語アクト、大至急やらないといけないのだが…。
・ゴーシェ翻訳&解説、大至急やらないといけないのだが…。

幾つかの要因で仕事のリズムを作れない。まったくストレスフルな状況。いいかげんにしてほしい。

Thursday, August 27, 2009

ドゥルーズと音楽

講義を準備すべく、ドゥルーズの『アベセデール』を観直している。オペラと題してOの項で語っているのだが、音楽体験についての対話が面白かった。

パルネ曰く、あんたは音楽についてけっこう語っているけど、実際にはほとんど音楽は聴かない(コンサートには行かない)し、ましてやオペラはベルクの『ルル』や『ヴォツェック』だけ好んで聴いている。そして日常的には大衆歌謡、特にピアフ(とかクロード・フランソワ)が好きじゃないかと。

そしてとどめの言葉。映画や絵画についてはまるまる一冊(以上)本を書いているのに、音楽については書いてない。あんたはほんとはvisuelな人間なんじゃないか、と。

これに対するドゥルーズの答えは揺らいでいる。グールドのコンサート・ドロップアウトに関する説明がそうであるように。

・コンサートにほとんど行かないのは、コンサートの予約は展覧会に行くより手間がかかるから。
・コンサートは自分のréceptivitéを超えているから。
・音楽について語るのはきわめて難しいから。

しかし、文章を書いたり読んだりすることの中で、自分にとって最も重要な要素が聴覚的なものである点で、やはり自分は音楽的なのだ、と強調していた。

ドゥルーズと音楽の関係は見かけ以上にねじれた関係なのかもしれない。

Thursday, August 20, 2009

もう一つのD&G

潜水。と書くと、ただただ静かに自分の仕事に沈潜しているかのようだが、現実にはそうはいかない。自分のケアレスミスもあり、シンポの準備は未だに手間取っている。ご迷惑をおかけした方々、本当にすみません。

*

後期は、哲学史の続き以外に、ベルクソン講義、ドゥルーズ講義をする予定である。時代の雰囲気の中で生きていた哲学者の姿を浮かび上がらせたいと思っているので、時代背景的な話にも力を入れているのだが――「世界史の復習的な要素も入れてもらいたい」というのが上からの要望でもある――、これを準備するのはけっこう時間がかかる。見かけは無駄話風なんだけどね。

ベルクソン講義では第三共和政期フランスや当時のヨーロッパの雰囲気が、とはいえ、陳腐な形ではなく、伝わるようにしたい。というわけで、今は松浦寿輝の『エッフェル塔試論』を読んでいる。「ベルクソンと音楽」については、ドビュッシーだけでなく、シェーンベルクとも比較したい。

また、ドゥルーズ講義では、68年5月をはじめ、第五共和政期フランスの話はもちろんするが、ドゥルーズとグールド――もう一つのD&G――のアナロジーに力を入れてみたい。そういうわけで、グールド関連の本を読み漁り、ディスクを聴きまくっている。ゴルトベルクをランドフスカやヴァルハと聴き比べてみたり。

ちなみに、私が一番好きな彼のディスクは、「モスクワ・リサイタル」である。新ウィーン学派――当時ソビエトでは演奏が禁止されていたという――とバッハという選曲がもろに好みだということもあるが、何よりほどよく肩の力の抜けた(音楽学生である観客との和気あいあいとした関係が伝わってくる)レクチャーコンサートという形式もいい。

これらの講義準備と、8月末締切の雑誌論文、そしてそろそろゴールが見えてきた(?)ゴーシェ翻訳を同時進行している。まあ、地味な自分の道を一歩一歩、ね。

Wednesday, August 05, 2009

なまもの

オランダ二部リーグのVVVでプレーしていた本田は、北京五輪のとき「三連勝する」と豪語したが、チームは三連敗、自身も空回りのプレーが目立ち、「ビッグマウス」のイメージが定着しそうになっていた。

しかし
昨年、そのVVVで大活躍し、見事一部リーグ昇格の原動力となった。その本田が、一部の新シーズン初戦で活躍した。以下のコメントでも随所に「俺様」的ではあるが、同時に自分の実力を冷静に見ることもできていて、「若いっていいな」と楽しい。

スポーツ選手も研究者も「なまもの」なので、常に進化したり退化したりしている。そこを見ないで、「誰それはやっぱりいい」「やっぱりダメ」というのは、あまり意味がない。

「誰も止められないところまで1年で突入したい」と言える気力は残念ながらないのだが、自分なりの努力を続けていきたい。そう心から願っている。

VVV本田「誰も止められないところまで1年で突入したい」 (2/2)
~オランダからの叫び~

2009年8月3日(月)

■オランダで議論「アフェライと本田。どっちが上か?」

 試合後、1ゴール1アシストの本田にオランダメディアが殺到した。(…)

 VVVのファン・ダイク監督は、「これまで『本田がオランダで一番のMF』とわたしが言ったらおかしいと思われていたが、今日はその力を見せつけてくれ た」と本田の活躍を喜んだ。その夜、ファン・ダイクはサッカーディスカッション番組に出演し、「(PSVの)アフェライと本田。どっちが上か?」と問われ た。「2人は違うタイプの選手」とファン・ダイク。「本田はより頭がいい選手だ」

 PSV戦での本田はシモンスのマークに苦しみ、さらにシモンスを援護するPSVの選手の寄せに遭い、ボールを再三失った。しかし、本田はチャンスを待ち続け、少ない好機にビッグプレーを連発し、オランダ人を感嘆させた。そこがファン・ダイクの言う“賢さ”なのだろう。

「(5月31日に行われた)ベルギー代表との試合でもシモンスとはマッチアップしていたし、『お前、分かっているからな』というオーラは感じてましたし、 前半何回か来た。でも、その後は来ないんで、“あ、びびっているな”と思いながらやっていた。悪いけど、おれの勝ちかな。でも今日見た限り、まだまだおれ よりアフェライの方が驚異的かなと感じる。ケン(レーマンス)もアフェライに苦労しているなと感じた。それをもっと、おれがシモンスに感じさせるべき」

 シモンスとのマッチアップ、そして2005年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)の同期アフェライとのバトルを本田は振り返った。

「おれとしては満足していない部分がある。点を取ったことは満足しているけど、もっとやれると思っていたから。『本田はオランダリーグでもやれるやん』と いう問題ではないレベルに、おれは突入していかなければと自覚している。極端に言えば、去年の2部リーグでのおれの存在みたいに、誰も止められないという ところまでこの1年で突入していきたい。自分はまだそこまで行けていないと分かっている。それが自分の課題。だからもっとドリブルを増やしたい。若干読ま れている部分はあるけれど、それは評価されていることだからうれしい。それを自分は打開していく」

 今、オランダでは「アフェライはアーセナルへいくかもしれない」という情報が流れている。
「アフェライがPSVを去ったら、本田はPSVに行くだろう」とファン・ダイク。「移籍金は2000万ユーロ(約27億1000万円)だ(笑)」
 ベルデン会長が設定した移籍金は1000万ユーロ。「その価値にふさわしい選手になる」と開幕前に語っていた本田だが、ジョークながらもファン・ダイク によってその価値が2倍になってしまった。そして、PSVのサポーターは今も本田獲得についてフォーラム上で熱く語り合っている。

Tuesday, August 04, 2009

潜水

引き続き、シンポ準備しつつ、大学の紀要に載せてもらう論文の校正をしつつ、テストの採点。

夏休みのしんとした大学で、そういう活動にいそしんでいると、じっとプールで潜水しているような感覚になる。とても心地よい。

午後7時ごろ研究室を出ると、夕日。ひぐらしが鳴いている。

校舎が小高い丘の上にあり、建物から出ると、辺りが一望できる。

近くに山があり、京都の大学時代によく見た風景に近い。

明日も地味に同じことの繰り返し。

本をばんばん出せる研究者というのは、いったいどういう研究生活と家庭生活を送っているのだろう?

Thursday, July 30, 2009

イタリア語

目下最大の懸案事項はmさんの書評を書くことなのだが…

そして事実それに最大限の力を注ごうとしているのだが…

今秋のシンポの準備が重くのしかかっている。今日も日本語、フランス語、英語で、何通メールを書いたことか。プロヴァンスの太陽を満喫しているらしいedからは、「自分の勉強する時間取れてる?」と心配そうなメールが来た。さらに…

rrからイタリア語のメールが来た。まあ、たしかに「今あなたの本をイタリア語で読んでます」とは言ったが…

時間がないのに、デリケートな事態なので、辞書を引きつつメールを読む。

というわけで書評、もうしばしのご猶予を…

Tuesday, July 28, 2009

prepare

学問も同じ。日頃からのprepareが大切。

「prepare」を大切にするのは好打者の共通点?

 マウアーと会話していて気づいたことがある。それは「prepare(準 備をする)」という単語をよく使うことだ。「僕はまだメジャー6年目。シーズンや試合に向けた準備の仕方をもっと学びたい。それが何より大事だと思うん だ」。準備を人一倍大切にしているのはイチローも同じこと。次の機会には、試合前のルーティンからマウアーをじっくり観察して、好打者の共通点を見出して みたい。

***

■腎臓手術で4月は全休

 その柔和な表情を見ていると、史上最強捕手というイメージは全くわいてこないし、クラブハウスでの立ち居振る舞いも控えめで、26歳という若さで 首位打者を2度も獲得したスーパースターとは思えない。気のいい隣のお兄さんというのが率直な印象だ。ジョー・マウアー(ツインズ)はしかし、静かに熱 く、イチローとの一騎打ちの様相を呈してきたバットマンレースを制して、捕手として史上初の3度目の頂点を目指す――。

 おそらく最後の最後までしのぎを削ることになる2人は、偶然にも今季の開幕に出遅れた。イチローが胃潰瘍(かいよう)を患ったのに対し、マウアーは腎臓手術で4月の試合をすべて欠場した。

「ベッドから起き上がれないほど痛かったこともあった。以前から腎臓の具合がよくなかったので思い切って手術した。おかげで長年の痛みから開放されたよ」 と、ソフトな口調で微笑さえ浮かべて語る。そんな病気を抱えながらセンセーショナルな活躍を続けてきたとは、驚きというほかない。

 5月に戦列に加わると、いきなり打棒爆発。得意の広角打法で打ちまくり、一時は4割打者誕生か、という気の早い報道もあった。しかし、それよりも何より も驚かせたのは本塁打の量産だった。わずか2カ月ほどで自己最多の13本を更新し、7月27日(日本時間)現在で17ホーマーをマークしている。

「パワーアップの秘訣? そんなものはないよ。経験を積んできたことが実を結んできたのだと思う」と、いたって謙虚だ。

■地元ミネソタで生まれ育ったスーパースター

 (…)運動能力は並外れて高く、リトルリーグでは投手を始め、あらゆるポジションをこなした。捕手に落ち着いたのは中学のとき。高校時代にはアメリカンフットボールのクォーターバックとして大活躍、オールアメリカンにも選ばれ、ミネソタでは最も知られた高校生だったという。

「ジョーのすごいところは、10代からスターだったのに、そういうそぶりが全くないところだ。地元出身で期待もプレッシャーも高いのに、最初から動じるこ ともなく、プレーに集中している。試合に臨む姿勢、練習態度、研究熱心さ、どれをとっても素晴らしい。どこまで進化していくのか。本当に楽しみな選手だ」 と、ツインズのロン・ガーデンハイヤー監督は褒めちぎる。

Sunday, July 26, 2009

雨のち雨

土曜日。雨模様の福岡を傘をさして出発。朝9時の飛行機で東京へ。着くと快晴…。折り畳みにしてくればよかった。

午後ずっと今秋のシンポのための打ち合わせ。

毎回、海外の研究者を招聘する際には、その人たちの仕事を日本の研究者に読んでもらい、報告していただくという会合をやっているのだが、今回がまさにそれであった。

日本でも世界でもほとんどのシンポは打ち上げ花火、一部の大物の話以外まともに聞いていないという状況だが、それではダメだと以前から強く感じていたので、このような「読み合わせシステム」を導入したのである。

ちまちましているし、「大物」の先生方はなかなか分担を引き受けてくれないのだが、私はこういう地味な仕事はとても大切だと思っている。制度を変えていくのは、抽象的な理論だけではなく、こういう地味で地道な作業の継続でもある、と信じている。

6時に会合を終え、飲み会に…と行きたいところだったが、ビールを一気に飲み干し、羽田へ急ぐ。翌朝9時半からオープンキャンパスがある。福岡に帰ってくると、また雨。

*

翌朝も雨。早朝、家から駅に着くまでに、横殴りの雨でびっしょり。ベルを鳴らすのを忘れて、バス停を一つ乗り過ごしてしまう。大雨の中で…。大学につくまでに、再びぐっしょり。

オープンキャンパスは、雨にもかかわらず盛況だった。一年目の新人に「研究室紹介」で何を話せというのかと思っていたが、みんなこのような機会に少しずつ大学のことを自分で学んで(学ばされて)いくのだなと実感。おかげで勉強になりました。

最寄駅に着くとまた雨。家に帰ると今年呼ぶedからメール。「プロヴァンスの太陽が勉強させてくれないよ」って…。

明日は1限から試験監督。

Friday, July 24, 2009

大雨

ベルクソン研究のごくごく一部をやりつつ、来週の書評執筆の準備作業をしつつ、再来週のテスト採点の準備作業をしている。他にも公私、大事小事がさざ波のように押し寄せる。

そういえば、今日はとてつもない大雨で、全身びしょ濡れで帰宅した。福岡にいるんだなとあらためて実感。

Tuesday, July 21, 2009

夏休み

などあるはずもなく、仕事漬けの日々が始まる。

今週は、今秋のシンポの準備会合があり、そのための資料を作成せねばならない。
というわけで、辞書と首っ引きでイタリア語の本を読んでいる。これはこれで楽しい。

来週は、とある書評を書く。常々敬意を表している方の本だけに力を入れたいのだが、自分がそもそもどれくらいの「力」を持っているのか、今どれくらいの力を発揮できるのかも、もはや分からなくなってしまった。時間もないし、不安だ。

再来週は、仏語アクトの校正&テスト採点週間。苦痛である。

その次は後期の授業準備、と同時に、とある雑誌の論文&紹介文、シンポ原稿、英語論集のための論文…。楽しいのか、不安なのか、苦痛なのか、それら全部なのか。

いつ、どれくらい自分の「本」に取り掛かれるのか…。

Sunday, July 19, 2009

トマス・アクィナス関係読書リスト

前期の哲学史が終わった。古代も中世も、もう一つ突っ込めず不満が残った。もちろんそれぞれの専門家にかなうはずもないのだが、やるからにはもう少し深めたい。来年からこうしよう。

1年目前期:古代、後期:中世
2年目前期:近世・近代、後期:現代
3年目前期:現代、後期:近世・近代
4年目前期:中世、後期:古代

*

最後二回は、スコラ哲学の面白さをどう表現しようかと一思案。平凡だが、ゴシック建築との並行性を前フリに。

エルヴィン・パノフスキー『ゴシック建築とスコラ学』(前川道郎訳、原初1951年)、ちくま学芸文庫、2001年。
割注が読みすぎて読みにくい。この手の博学本によくありがちな悩み。

馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー――中世の聖なる空間を読む』、講談社学術文庫、1992年。

建築の部分については分かりやすく詳しい。ただ、肝心のスコラ学との並行性の部分はイマイチ。

酒井健『ゴシックとは何か――大聖堂の精神史』、講談社現代新書、2000年。

パノフスキーやマールらの「スコラ学のゴシック建築への影響」説を否定し、並行説を主張。まあそれが妥当でしょうね。

西田雅嗣(まさつぐ)編『ヨーロッパ建築史』、昭和堂、1998年。
スコラ学についての言及はまったくないが、ロマネスクとの対比でゴシックの特徴を分かりやすく説明してくれている。ただ、建築専門チームなのだから、もう少し見やすい図版の収集ないし作成に努力してほしい。図版にセコハンが多く、見づらい。


*中世哲学一般(アウグスティヌスの項に追加)

Alain de Libéra, La Philosophie médiévale, PUF, coll. "Que sais-je?", 1989. 大著の『中世哲学史』の簡略版。

ジャック・ルゴフ『中世の知識人――アベラールからエラスムスへ』、岩波新書、1977年。ある時期までの岩波新書には「こんな素晴らしい翻訳書が新書で!」というのが幾つかあった。その好例。

J.B.モラル『中世の政治思想』(柴田平三郎訳)、平凡社ライブラリー、2002年。

ジルソン『中世哲学の精神』、既出。
Gilson, Introduction à la philosophie chrétienne...
Gilson, L'Être et l'essence (1948), Vrin, 2e éd. revue et augmentée, 1981.手元に持っているのはこの第二版なのだが、第三版(1984年)が最終らしい。大きな変更があるのだろうか…。

山本耕平「スコラ哲学の意味」、『新岩波講座』、既出、292-319頁。ごく基本的な概説。

*トマス

Jean-Pierre Torrell O.P., Initiation à saint Thomas d'Aquin. Sa personne et son oeuvre (1993), 2e éd. revue et augmentée d'une mise à jour critique et bibliographique, 2002. 後述の日本のトマス研究の大家である稲垣氏の著書でも、「この二十年の間」で「トマスの人と思想の全般を取り扱った著作として特に注目に値する」ものとして挙げられているが、私はこの著作を畏友CdMから勧められて、フランス滞在中に購入しておいたのだった。ただし、かなりの大著なので、「90分でトマスを」という人には向かない。

Thomas d'Aquin, Commentaire du traité De l'âme d'Aristote, introduction, traduction et notes par Jean-Marie Vernier, Vrin, coll. "Bibliothèque des textes philosophiques", 1999.

ジルソン/べーナー『アウグスティヌスとトマス・アクィナス』、既出。

水田英実(ひでみ)・藤本温(つもる)・加藤和哉「トマス・アクィナス」、中公新社『哲学の歴史』第三巻、既出、429-531頁。

クラウス・リーゼンフーバー『中世思想史』(村井則夫訳)、平凡社ライブラリー、2003年。前著『西洋古代・中世哲学史』(平凡社ライブラリー、2000年)よりいいが、宗教的観点があまりに勝ちすぎており、おまけにジルソンのようにある程度の哲学的な冴えもないとなると厳しい。解毒剤としてラッセルを併読することは必須。ただ、そのようなものとして読むなら、勉強にはなる。

フェルナンド・ファン・ステンベルゲン『トマス哲学入門』(原書1983年 稲垣良典ほか訳)、文庫クセジュ、1990年。私にとっては悪いクセジュの典型。

稲垣良典(りょうすけ)『トマス・アクィナス』、講談社学術文庫、1999年。

Saturday, July 18, 2009

約束は真面目ではない?

今年の結婚論講義は、毎回、

1)重要な思想家を一つのイメージで印象付け、
2)その思想家の生きた時代と生涯を、彼の思想と関連づける形で簡単に紹介し、
3)その思想家の基本的な思想を概説し、
4)結婚論がその思想体系に占める位置や意義、ならびにその結婚論の概説

という形で進行したので、結婚論自体としては、それほど深い次元までは行けなかった。これはジレンマで、結婚論講義としてはもちろん4が最重要なのだが、2や3の基本的な知識が前提としてないと、インパクトも薄れてしまう。そこで、2や3に時間をかけた結果、4がいつも駆け足になるのである。

来年度は、思い切って4を前面に押し出してみることにしようか。「ヘーゲルって結婚の思想家だと思ってた」と学生に言われることを恐れないならば、の話だが…。

*

結婚論の最後二回は、ドゥルーズ=ガタリとデリダ。来年あたり仏文学会で「結婚の形而上学とその脱構築(デリダの場合)」に関する発表をしてみようかな。

前にも書いたが、結婚論の重要な論題の一つに「誓い」や「約束」の問題がある。それは結婚の哲学が時間の哲学でもあるからだ。というのも、「誓い」や「約束」の問題とは「不可逆性」の問題だからである。東さんは『絵葉書』を情報伝達経路、コミュニケーションの話として読み解いたが、私はこの観点から読み解けるという直観を持っている。

《オックスフォードのよきスコラ哲学に従えば、約束は約束することしかできない。到達すること、自分の約束を果たすに至ることを約束することは決してない。可能なら約束を果たすに至るよう全力を尽くすことを約束するだけだ。

人は到達することを約束するのではない。到達する意図があること、到達するために自分の能力のすべてを傾注することを約束するのだ。もしそれが私の能力のうちにないために、また私のうちの、あるいは私の外のあれやこれ、あれこれの人が私の到達を妨げてしまったために、私が到達するに至らないとしても、私は自分の約束に背いたわけではない。私は相変わらず到達を望んでいる。だが、私は到達するには至らないのだ。

私は一貫して自分の約束=契約に忠実であろうとしてきた。君はこう言うだろう、そんなのはおよそ真面目な話とはほど遠い、オックスフォードの人間は不真面目だ、そういう「私のうちの、あるいは私の外の」とかいうのは恐ろしく曖昧か偽善的だ、可能とか意図などという観念は失笑を誘うだけだ。あなたは自分がその一語たりとても信頼を置いていない言説から論拠を引き出している、と(いや、いや、信頼している――他でもない真面目さの名において、オックスフォードの人々は話しているのだ[…])。

それに約束、誓約は真面目さに属するのだろうか、それは真面目なのだろうか、言ってごらん? それは真面目さより、はるかに深刻で危険で、はるかに軽く、より多くのものからなっている。だが真面目ではない。》(デリダ『絵葉書』)

Friday, July 17, 2009

てはつたえる→てつだえる

来週で前期が終わる。授業もあと一つ二つで終わる。

講義のほうはほぼ出来る限りのことをした。どこの大学でやっても恥ずかしくないレベルのものをやっていると思う。難しいことを可能なかぎり簡単に、しかし分かりやすさのために細部を犠牲にしない、というチャレンジ。アンケート結果が出てみないと学生の満足度は分からないが。

ゼミのほうは反省点がいろいろある。特に学生との距離。他学部の先生に伺うと、1年生ゼミでは、

・前期で少なくとも二回は、「レクリエーション」と称して、土曜日などに、近くのレクリエーション施設に学生を連れていき、ドッジボールやミニサッカーを一緒にやる。そうすると、学生たちとの連帯感のようなものが生まれ、結果としてゼミへの溶け込み具合が違ってくるのだそうだ。学生に幹事をやらせることで、責任感が生まれたり、「リーダー格」の学生の発見にもつながる、と。

・最終回には、お菓子やジュースを買っていって、みんなで「打ち上げ」をするのだそうだ。これも上と同趣旨の試み。学生と親しくコミュニケーションをとる中で、欠席学生の身辺にそれとなく探りを入れることもできる。

こういうことを書くと、「嘆かわしい」「馬鹿馬鹿しい」「そんなことは大学でやるべきことか」とおっしゃる先生方の顔も浮かぶのであるが、現実は現実として受け止めなければならない。学生たちを少しずつ「大学生らしく」変えていくためには、私たちのほうも少しずつ現実に合わせて変わっていく必要がある、ということだろう。

デリダの次のような言葉に完全に共感しつつ、でもそれだけでも駄目だとも感じている。

《例えば、言い回しの難解さを、襞を、パラドックスを、追補的矛盾をあきらめること、それらが理解されないだろうという理由で、あるいはむしろ、その読み方を知らない、本のタイトルそのものの読み方さえ知らないあれこれのジャーナリストが、読者あるいは視聴者はなおさら理解できないだろう、視聴率とその稼ぎ手が害を被るだろうという理由であきらめること、それは私には受け入れられない猥褻事です。それはまるで、私に頭を下げろ、隷属しろ――あるいは愚劣さで死ねというようなものです。》

「上から目線」に過剰なほど敏感な2009年の日本で、このような言葉を受け入れられる人はどれくらいいるだろう。そしてその「られる」という能力ないし可能性の問題、「どれくらい」という数の問題は何を意味するのだろう。これもまた、哲学の問題ではないのか。

「人文系研究の衰退を食い止めるのは、制度改革への批判ではなく、人文系研究の成果そのものである」? 私はそうは思わない。あれか、これか、ではない。あれも、これも、なのだ。人文系研究の衰退を食い止めるのは、研究者としての振る舞いと同時に、大学教員としての振る舞いである。

子育てはとても参考になる、大学生との付き合いばかりでなく、いろいろと(笑)。『クーヨン』2009年7月号「上手にNOを伝える育児」の特集「イライラせずにすむ「やっちゃダメ」の伝え方」から。

《おもちゃを片づけるとき――声をかけるだけでなく手を添えて導いて。

「片付けなさい!」と声だけかけても、ラチがあきません。そんなときは、おもちゃを持つ手首を引いて、おもちゃ箱へ。「はーい」という気持ちが励まされます。》

声をかけるだけではダメなのだ、大学教員も。

Wednesday, July 15, 2009

ウェイト・トレ

一つ一つのプレーの質を上げる以前に、もう少し基本的なことがあった。スタミナだ。

怒涛のように仕事が押し寄せてきて、さまざまな悪条件が重なっても、疲れきっていても、

ただ翻弄されるがままになるときでさえも、

その翻弄のされ方を或る程度コントロールできる、というような意味でのスタミナ。

この部分を強くしていくには、普段から仕事量を上げていくしかない。

ウェイト・トレと同じようなものか。ふたたび、プロに入りたての高卒ルーキーみたいな気分になる。