Sunday, January 28, 2001

オツベルと象(k00644)

 おそらく日本人の大半は、宮沢賢治の「オツベルと象」を読んだことがないに違いない。だからこそ、金メッキの太い鎖のついた時計(その実、重石)を「褒賞だ」と首に巻かれて喜んでいられるのだろう。

≪宗教は、人間が動物に対して持っている本質的な区別に基づいている。したがって動物は何らの宗教をも持っていない。昔の無批判的な動物誌家たちは確かに、象は他の賞賛すべき諸特性と共に、宗教心という徳をも備えていると考えていた[何だか急に「オツベルと象」を思い出した]。しかし、象の宗教というようなものは、おとぎ話の世界のものである。最も偉大な動物学者の一人であるキュヴィエは、自分自身の観察に基づいて、象を犬より少しでも精神段階が高いものと見ていない。

 しかし、このように人間を動物から本質的に区別するものは何であるか?この問いに対する、最も単純であり且つ最も一般的であり、また最も通俗的でもある答えは、それは意識であるという答えである。けれどもここで言う意識は、厳密な意味での意識である。何故かと言うと、自己感情とか、感性的な識別力とか知覚とかという意味での意識、さらには外的事物を一定の顕著な目印に従って判定するという意味での意識さえも、動物に認めないわけにはいかないからである。最も厳密な意味での意識はただ、自己の類・自己の本質性が対象になっているところの存在者のところにあるだけである。動物は確かに個体としては自己の対象になっている。それだからこそ動物は自己感情を持っているのである。しかし動物は類としては自己の対象になっていない。このために動物には、自分の名前を知から引き出しているところの意識が欠けている[意識(Bewustsein)は知(Wissen)から派生した語であるということ]。意識があるところ、そこには科学のための能力が存在する。科学とは、類の意識である。我々は生活においては個体と交渉し、科学においては類と交渉する。しかし、ただ自分自身の類・自分の本質性が対象になっている存在者だけが、他の事物または他の存在者をそれらのものの本質的な本性の方から対象にすることができるのである。

 したがって、動物はただ一重の生活を送るだけであり、人間は二重の生活を送る。すなわち、動物の場合には内的生活が外的生活と合一しているが、人間は内的生活および外的生活を送る。人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ、類の機能を一つも果たすことができない。しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能―何故かと言うと、考えるとか話すとかは真の類的機能であるからである―を果たすことができる。人間は自己自身にとって私であり君である。人間は自己自身を他人の地位に置くことができる。そしてそれはまさに、人間にとってはただ自己の個体性が対象であるだけではなくて、自己の類・自己の本質もまた対象であるからなのである。

 動物とは区別された人間の本質は、ただ宗教の根底であるばかりではなくて、また宗教の対象でもある。しかるに宗教とは無限者の意識である。したがって宗教は、人間が自己の本質―そしてもとより有限で制限されている本質ではなくて、無限な本質―について持っている意識であり、且つそれ以外の何物でもあることができない。(…)生活や行動が一定の種の植物に拘束されている毛虫が持っている意識は、またこの限られた領域以上には広がらない。この毛虫は確かにその植物を他の植物から区別しはするが、しかしそれ以上のことは知らない。我々はこのように制限された意識―しかしそれはまさにそのように制限されているために誤ることがなく欺くこともない―を、そのためにまた意識とは呼ばないで本能と呼んでいる。厳密な意味または本来の意味での意識と無限者の意識とは分離されない。制限された意識は何ら意識ではない。意識は本質的に総括的で無限な性質のものである。無限者の意識とは、意識の無限性に関する意識以外の何物でもない。≫(フォイエルバッハ、『キリスト教の本質』、第1章)

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