Wednesday, January 03, 2001

たどり着かないということにたどり着く。(k00638)

 友人snに、ある翻訳の解説の一部となるべき次のような文章を書き送った。

≪今の日本の哲学界には、冒険者の向こう見ずな好奇心に喩えられるべき新たなパースペクティヴへの意志と、哲学的伝統の中に埋もれた興味深いものを見つけ出してくるためには労をも厭わぬという、いわば知的肺活量とでも言うべきものを兼ね備えた人物が欠乏している。

 一方で、新しい物好きは、新奇なものにすぐ飛びつくけれど、哲学的伝統への精通に支えられた知的筋力がないために、発展させるということが出来ない。著者の語彙をそのまま用い、著者の思想を得意げに振りかざす。まるでライオンの毛皮のように。「プラトン以来の西洋形而上学の伝統に対して、某は…」などと言ってみたところで、実はまるでその当の伝統を知りもしないのだ。毛皮をなでるように海を見渡し、新奇なものを見つけるや飽きるまで追いまわすけれど、深く潜ることが出来なければ、海の広さを充分に満喫したと言えるだろうか?新奇なものに飛びつくということと新たなパースペクティヴを持とうとするということは、似てはいるが非なるものである。

 他方で、伝統の中に埋もれすぎてしまった人々は、潜水病にかかってしまったのだろう、再び陸に上がって見る陽光を容易に信ずることが出来ない。海女には肺活量はある。だが、自分の持ち場しか見ていない。新たな日の光の下で海の広さを見晴るかすということを知らない。ちまちまと他人の研究にけちをつけることに汲々とするばかりで、少しも創造的なところがない。ところで、創造するとは、新奇なものを追いまわすということでは全くない。流行を追いまわす姿はいつの時代にもありきたりなものだ。だが、同時に言っておかねばならないことは、そう言って流行に背を向ける姿もまた、いつの時代にも見られるありきたりのポーズなのだということである。

 新しいものとは永遠に新しいもののことだ、とある哲学者は言っている。

 この『…』は、そのような二つの困難な課題を二つながらに克服した、稀な、それだけに翻訳する価値のある著作であると訳者は信ずる。≫

 これに対し、snは次のような返事を送ってくれた。

≪おれはどちらかと言うと身辺の流行に背を向けて生きている人種だ。これは一種のポーズなのだが、ポーズと言うだけでは言い足りない。それは生態のリズムと関係している。人間には皆大体よく似た、しかしよく見ると微妙に違う個々のリズムと言うものがある(後天的か先天的かは知らないが)。このリズムをあまり本調子から逸脱させると、その人間にはストレスが蓄積する。自分のリズムを知ること、そしてそのリズムを意識的に調律し、他のリズムとの間を測ること。ポーズはここに関係している。 なぜ流行はこんなにも大きく、背反のポーズさえもがステロタイプなのか。その原因と結果をともに引き取る全体主義とフォード主義の自己完結性、その強力さの証明とみるべきか。(だけではないだろうが) いずれにせよ、凡人はポーズをとる。重要なのはそのポーズに対する反省、批判的なまなざしだ。リズムをあまり大きく乱さない、乱されないことだ。

 おれはときどき山に登る。大抵は一人で歩くから、疲労の蓄積と注意力の低下はなるべく避けたい。特別なことはなくて、急がない、無理はしない、一定の間隔で休みを取り、水・食い物をこまめに取る。そうすると、日帰りなら大体10時間くらいは疲労なく歩ける。焦ったり、悲観的になると疲労は倍増する。ポーズをとってみる、変えてみる、大体こんなところだと言うリズムが分かってくる。山歩きの場合、リズムは年齢とともに変化するようだ。他の活動でも似たところはあるだろう。≫

 私たちは同じことを言っているのか、違うことを言っているのか。こんなちょっとした意見の隙間からも「手仕事」は始められる。

 ただ意見を交わすこと、一見無意味な単語の切れ端でさえも、そこにはじめて気づかれぬほどの風が立つ。波が起こる。ドゥルーズが対談について述べた否定的な見解の全てに賛同したうえで、にもかかわらず彼は決して意見を投げ付け合うことの意義までも否定したわけではなかった、ということを確認しておきたい(『ドゥルーズの思想』冒頭と『記号と事件』中のガタリとの共同作業についての記述)。

 対談は「大筋」を気にかけてしまう傾向がある。「ドラマタイズしてしまう」傾向がある。対談者たちは往々にして、話しての「言わんとすること」以外には、あるいは(モーゼス柄谷のような)もっとひどい場合には自分の言いたいこと以外には、話し手の笑いや身振りから立つ風には、ましてや席に着く時、席を離れる時に立つ「風」には注意を払わない。

 ここから道は二つに分かれる。「あなたたちは、「風」に注意を払うことをしません。風に注意を払うことこそが重要であるのに」と、話し手の身振りに十二分に注意を払っているという自分の身振りに神経症的にこだわれば、人はデリダになることができるし、他人にどう見えるかは二の次にして実質的に「風」にこだわりつづけ、そこから面白いものを引き出そうと努めれば、人はそのときドゥルーズ的であるだろう。

 この分岐はもちろん「生態のリズム」に由来するが、また同時に、デリダは(昔から私が主張しているように)本質的には「文学批評家」(critique litteraire)だということを示しているように思える。

 哲学者は概念を扱い、文学者は言葉を扱う。デリダがいくら「概念を機能させる」と言おうとも、その号令で踊りだすのは言葉であって概念ではない。一例を挙げよう。ドゥルーズは、音楽に関する講義の中で、ファルセットとカストラートを対比する。このとき彼が注目しているのは、両者の「機能」である。彼はそれらの描写がつむぎだす比喩に溺れない。

 一方、デリダは、確かに哲学のテクストにこだわる。一字一句の意味を検証していく。だが、本文・原文とそれらのデリダ自身によるパラフレーズ・ずらしが綾なす比喩のテクスチュアに彼は耽溺してしまう、あるいは耽溺してみせる。バルザックから盗用された「デリダ的スターシステム」とも言うべき、彼の著作群におけるテーマ系・概念の相互参照体系は、彼の概念の虚弱を隠蔽するのに役立つ。「私はこのテーマを別の場所でさらに展開し発展させている」等。

 人はそこにもっと本格的に展開されているのだろうと想像する。だが、当該個所を参照してみれば、やはり概念的には同レヴェルの漠然とした比喩の戯れがあるにすぎない。

 はっきり言おう。「遺産のテーマ系」、別に他のどのテーマでも構わないのであるが、それが一体どのような概念を機能させているというのか。「遺産とは、回帰してくるものを選択的に濾過して引き受けることである」。なるほど、それで?「遺産とは、単に我々が選び取れるというようなものではなく、我々に憑きまといそれを相続するよう迫ってくるものである」。なるほど、なるほど。

 しかしこういった言葉は全て、「遺産」という言葉が彼の頭の中に触発するイメージを記述したものに過ぎない。走り出したのは比喩であって、概念ではない。先ほど我々は、「風」という言葉から何がしかを思考しようとしてみた。それを「思考」と呼ぶことはできよう。けれどそれは明らかに概念の作動といったものではない。概念を機能させるとは、一連の比喩が織り成す巧まざる偶然に自ら感心してみせることではない。比喩の内容をいかに豊かに展開して見せようとも、その比喩の外側に出ることは出来ない。ただ別の比喩に出会うだけだ。

 さて、一つの比喩が尽きそうになったら、次の展開は読めている。「この遺産のテーマ系は、別のテーマ系と密接に結びついている、すなわち死のテーマ系、つまりは亡霊のテーマ系と」。比喩から比喩へ、どうりで分厚い本が出来上がる。こうして彼の「哲学」実践は、我々の眼から見れば内在的要請から必然的にそうなるのであるが、彼自身が「法の門前」で言っているように、「たどり着かないということにたどり着く」。うまい言い方ではあるが、たどり着いていないことに変わりはない。

 だが、文学研究においてテマティックは市民権を得ている。「これこれのテーマは、ここにも、あそこにも、見出される」、等等。私は、現に自分自身がしばしば試みる「思考」そのものを批判しているわけではない。デリダのそれは、文学研究としては(学生にとって模範的とは言えないかもしれないが)名人芸的テクスト読解として賞賛されるべきものである。私はただ、それは哲学ではないと言っているだけだ。

 デリダはおそらく自分が「正統的」哲学者であると主張するつもりは毛頭ないだろう。だから、私たちは意見の一致を見る。

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