Wednesday, January 03, 2001

フェチへの道(2)広末(k00639)

(…)などと書いていたら、数時間を経た(同じ日の)今はすっかり(本当に雲ひとつない)青空が広がっている。リールの天気は変わりやすい。

>>isさん、了解しました。遠慮なく(笑)、やらせていただきます。

(承前) 教科書的おさらいを差し挟んで申し訳ないが、『ドイツ・イデオロギー』は、大きく三つの部分に分けることが出来る。

①全体の序論かつ後の二つの部分の理論的一般化と見なすことができる部分:
  (Ⅰ-1)序言、(Ⅰ-2)1.フォイエルバッハ。
②バウアーとシュティルナーを標的とする論争的部分:
  (Ⅰ-3)ライプツィヒ公会議、(Ⅰ-4)2.聖ブルーノ、(Ⅰ-5)3.聖マックス、(Ⅰ-6)ライプツィヒ公会議の終幕)。
③「ドイツ社会主義」ないし「真正社会主義」の批判的分析:
  (Ⅱ-1)真正社会主義、(Ⅱ-2)1.『ライン年誌』あるいは真正社会主義の哲学、  (Ⅱ-3)4.[2.と3.は失われてしまったようである] カール・グリューン著、『フランス及びベルギーにおける社会運動』(ダルムシュタット、1845年)、あるいは真正社会主義の歴史的記述。  (Ⅱ-4)5.「ホルンシュタイン出身のゲオルク・クールマン博士」あるいは真正社会主義の予言。

 バリバールは、この「構成」(呈示の仕方)

[expositionを訳者は「叙述」と訳しており、それは間違いではないが、筆者の言わんとするところを余すところなく伝えているか、という点で疑念を生じさせる訳語選択ではある。以下の引用の「構成」を「叙述」に戻して読まれると、先に私が「言葉の取り扱いが若干雑」といった意味を実感してもらえるであろう。私は決していい加減に人の翻訳を非難しているわけではない。]

に関して、次のように言っている。

 ≪ところで、『ドイツ・イデオロギー』の構成は、私がすでに指摘したように、ただ単にかなりこんがらかっているだけではなく、その点に関して人を誤らせるものなのである。その構成は、テクストが執筆された順序を逆にしてしまっており、論争的な部分を後の方に追いやり、まず手始めに、その導きの糸が分業の歴史であるような一般的な展開を提示する。≫(邦訳66頁)

 広末(ヒロマツと打ったら「廣松」ではなく、アイドルの名前が出た)の草稿研究も読んでいないので、執筆順序に関する事実関係はバリバールを信じることにして彼の論述を追うと、ここからマルクスのイデオロギー解釈に対する一般的な誤解(あるいは、マルクス自身の理解からは自由な解釈)が生まれてくるのである。

 ≪すると確かに、イデオロギーという概念は、「現実生活」すなわち生産によって構築される「基部」からの「上部構造」(この表現は少なくとも一度用いられている)という派生物に由来するように思われる。議論の本質的な部分は、社会的意識(Bewusstsein)の理論であるということになるかもしれない。この意識が依然として社会的存在(Sein)に依存したままであるにもかかわらず、ますますこの後者に対して自律的になり、遂には非現実的で「幻想的」な≪世界≫を、つまりは現実の歴史に成り代わる見かけの自律に恵まれた≪世界≫を出現せしめるに至る、といったことはいかにして可能になるのかを理解することが問題となっているように思われるかもしれない。そこから、意識と現実の間でそのような≪世界≫を構成する隔たり、新たな歴史の発展が意識を転倒させ、意識を生のうちに再統合することによって最終的に解消してしまうことになる隔たりが出て来るであろう。したがってそれは、本質的には、認識論の裏面を成す、誤認ないし幻想の理論であるということになるかもしれない。≫(拙訳)

 だが、今問題にしている草稿執筆の少し前の時点に[邦訳「我々に提示されている編集の手前に少し」は誤読。先に言及した「観念論の揚棄」参照のこと]遡ってみるならば、イデオロギーの問題構成が二つのはっきりと異なる問題の出会う地点に出現することが分かる。(以下次回)


 翻訳が下手な人は結局のところ、翻訳という作業を何か付随的・非本質的なものと捉え、「翻訳術」を学ぶことを疎かにしているがゆえに下手なのではあるまいか。しかし、翻訳術とは文章術に他ならないのだから、学者として必須の習得科目に数えられねばならないはずである。学者が修辞学を修めていることは、近世まで、すなわち近代的な大学制度が確立すると同時に専門細分化が始まる時代までは、(無論皆が一様に習熟したわけではないにしても)常識であったのではないのか(これは反語ではなく、純粋な質問です、isさん)。概して研究者に悪文家が少なくないことは洋の東西を問わないようであるが、教授資格を問う制度としては、フランスのagrégationはかなりいい(ドイツのHabilitationはどうですか、mgさん)。日本の中等教育も、感情の自由な発露など目指さずに、厳格なdissertation教育を導入すべきである。

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