アレクセイ・ゲルマンの「我が友イワン・ラプチン」を見ていたら(東京で観た「フルスタリョフ、車を!」は私好みの映画であった)、あの言葉が出てきた。
"Rien n'est fini. Rien n'est meme commencé." 卒業論文で「ナジャ」の一節をエピグラフに引いたことを思い出す。「ロシア語で始まりという意味なの。ただ始まりだけなの」。始まりは、ただ始まりだけで、本当に始まりなのか?始まり続ける始まりは、始まりと呼びうるのか?
この言葉に、ベルクソンの次の言葉は呼応しているような気がする。「この本(「二源泉」)は、他の著作とは全く異なる条件の下で書かれた。すべてが一挙に動き出して飛び立つ代わりに、私はかつて見た乗合馬車の馬たちと同じようにやってしまった。彼らは馬車を引き上げるために同じ坂の下まで何度も何度も連れ戻されていたのである」。
ベルクソンの『二源泉』に取り組んでいる自分の試みもまた、ラプチンやナジャや馬たちのようにぐるぐると同じところを動き回っているような気すらする。それでも変化はある。「失われた時」の崩れ落ちてくる大聖堂、永遠に崩れ落ち続けてくるままの大聖堂のように、動き出そうとする瞬間に永遠に閉じ込められた汽車の振動を見て、ブルトンは「美とは痙攣だ」と言った。
決して始まってしまわず、始まり続けるもの、永久革命のような粗雑な概念ではなく、その倦むことのない回帰から洩れる回転音、きしみに耳を澄ますこと。法の門前に辿り着き続けること。門番は永遠に腰をかがめて大声で怒鳴り続け、永遠に門を閉じ続ける。
ピナ・バウシュの「カフェ・ミュラー」の恋人たちのように、反復することが同じ事態の質の変容を促す。愛の仕草は、そのままで、観る者に苦痛を与える暴力となる。
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